医療保険は「アメリカンドリーム」の1つだった
医療保険はこれまでアメリカンドリームの一つとして獲得するものとされていた。すなわち、努力をして、より良い条件を求めて転職をして、そして好条件の医療保険を提供してくれる企業に就職する。努力をしない者に同様の条件が政府によって保障されるのは我慢できない。アメリカの伝統的価値観に裏付けられた医療保険制度は、市民をこのように分断してきたと言える。
しかし新型コロナウイルス感染症は、他人の健康が自分の健康に直接影響することを知らしめ、医療問題が国家経済に大きな影響を及ぼすことも示した。民主党大統領候補(編集部注:当時)のジョー・バイデンにとって新型コロナウイルス感染の拡大は、医療に対する連邦政府のより大きな役割を主張するための武器になる。問題はバイデンが、そこでオバマができなかったこと、すなわち、アメリカニズムの再定義ができるかどうかである。
しかし状況はもう少し複雑である。過去にも医療保険制度改革の時期に明確な外敵がいたが、今回は中国がそうなりつつある。中国は、新型コロナウイルス感染症を、いわば個人のプライバシーを無視した強権的な手法で押さえ込んだ。トランプは中国との対決姿勢を強めることで、大きな連邦政府の役割を求めるバイデンを「社会主義的」だと攻撃する。バイデンがそれに対してどのように反論するかが注目される。
おわりに
アメリカ人の個人の自由に対するこだわり、自分の「生」についての選択する自由に対するこだわりの強さの本質は、日本で育った日本人には理解が難しい。新型コロナウイルス感染症が拡大しても、反マスク運動が起こったり、ワクチンがもし完成しても3人に1人は接種を拒むだろうという調査結果を目にしたりする。まさにパトリック・ヘンリーの「我に自由を与えよ、然らずんば死を」の世界である。それ故に「生」についての選択に関わる医療保険政策は、アメリカのアイデンティティをめぐる議論にまで影響するし、大統領選挙で最重要争点の一つになる。
新型コロナウイルス感染症によって、アメリカ国内では分断が先鋭化した部分もある。しかし同時に、建国の父たちが決めたナショナルモットー「多から一を(E Pluribus Unum)」を再認識する機会にもなった。見えない敵であるウイルスと戦うために、多種多様な人種、民族、宗教、文化の人々は「一」となって行動しないといけない。もはやこれまでのアメリカニズムでは「一」になることが困難である事は明らかになった今、2020年大統領選挙でどのようなビジョンが語られるのかは、アメリカの将来のみならず、これまでアメリカの伝統的価値観を手本としたり憧れの対象としたり、そして時に妬みや憎しみの対象としてきた世界の未来にも影響するだろう。
[参考文献]
山岸敬和(2014)『アメリカ医療制度の政治史――二〇世紀の経験とオバマケア』名古屋大学出版会
山岸敬和(Takakazu Yamagishi)
1972年生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。慶應義塾大学法学研究科政治学専攻修士課程修了。ジョンズ・ホプキンス大学政治学部にて、Ph.D(Political Science)取得。南山大学外国語学部英米学科教授を経て、現職。専門はアメリカ政治、福祉国家論、医療政策。主な著書に"War and Health Insurance Policy in Japan and the United States: World War II to Postwar Reconstruction"(Johns Hopkins University Press)、『アメリカ医療制度の政治史──20世紀の経験とオバマケア』(名古屋大学出版会)などがある。
『アステイオン93』
特集「新しい『アメリカの世紀』?」
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