「正しさ」から生まれた「悪」を直視する──哲学者・古賀徹と考える「理性と暴力の関係」
古賀:「なんで建築が嫌になったんだろう」と考え続けるうち、「きっと私が何かを作る力をその建築が奪っているからだ」と思いつきました。
人は学校という職業訓練校を出たらどこかの組織の「部品」になる。そこで得た金でモノを買う。家だったら、建築家が設計したいわゆる「クリエィティブ」な家をローンで買う。でもそこで自分の創造性は全く活かされません。出来上がった家に創造的に関わることもできません。これも要するにテンプレに従って働いて、それにしたがって買っているわけです。建ったばかりの新品が一番いい状態で、建築物の中での日々の暮らしにおいて分泌されるであろう何かを「無いもの」にしている。
そもそも建築って何だろう。生きている人間が、自分の住まいを作るということはどういうことなんだろう。それを考えると、今までできあがってきた方法論が、疑問にさらされるようになる。
だから僕は「自分で(家を)ちょっとずつ作ってます」「ボロボロの家を買い、こんな感じに自分で作り直して暮らしています」と話しています。そうするといわゆる建築家はあまりいい顔をしないんですけど。
西洋の伝統は、貴族の城館や秘密警察の本部といった暴力装置を、その建築物を破壊することなしに使用目的のみを転換する。暴力的な支配者の執務室は民衆によって占拠され新しい市長の事務室となる。暴力の前線基地は平和の本拠地となる。革命の勝利はその転換を展示し現実に機能させることにより公衆に対して常に可視化されてきた。(中略)だから理性はいかにそれが腐敗し、崩れ去ろうとしたところで、自らの構築物がリノベ―トされる希望を未来に持ち越すことができる。(中略)崩壊した何かを組み替える可能性を未来に贈与することができるだろう。(『理性の暴力』終章より)
(取材・文:錦光山雅子、岩本祐希子 写真:渕上千央)
古賀徹(こが・とおる)
九州大学大学院芸術工学研究院教授。専門は哲学。近現代の欧米圏の思想を中心に研究を進める。水俣病やハンセン病、環境破壊、全体主義、消費社会など、現実の諸課題に即して思考を続ける一方、デザインの基礎論の構築を試みる。単著に『超越論的虚構――社会理論と現象学』(情況出版、2001年)、『理性の暴力――現代日本社会の病理学』(青灯社、2014年)、『愛と貨幣の経済学――快楽の社交主義のために』(青灯社、2016年)。編著に『アート・デザインクロッシングI・II』(九州大学出版会、2005-2006年)、『デザインに哲学は必要か』(武蔵野美術大学出版局、2019年)など。