「正しさ」から生まれた「悪」を直視する──哲学者・古賀徹と考える「理性と暴力の関係」
古賀:大学の授業でも「問題を設定し、これについて論じよ」というレポートを課題に出すことがあります。すると、問題について徹底的に考えることなしに、レポートの末尾に「議論を続けていくことが大切だ」「問題への認識を深めることが第一歩だ」と新聞社説書式にはめこんだようなまとめ方をする学生がたくさんいます。「議論することが大事というのなら、いま・ここで具体的に議論しろ」と思うのですが、そう締めくくって逃げてしまうんですよ。
キツイからテンプレで逃げる。それは学生だけではなく、僕だってそうだし、学問もマスメディアもそう。ただ、マスメディアがテンプレ化することで社会や人々に与える影響には、すさまじいものがあると感じています。
──自分の視点が崩れる様を伝えるとは、つまり「自分の言葉で語れ」と?
古賀:そう。そうやって本来、言葉は人間の中から湧き出てくるんですよ。いまそこにあるものを伝えるために、自分のオリジナルな言葉を発さなければいけない。だけど「言葉にされたもの」なんて常に疑わしいわけです。だからさらに言葉を加えていくしかない。
テクノロジーもこの自己反省の姿勢がないと、自己方法化します。報道のテンプレ化と一緒で、自分が作った方法そのものを反復するようになっていってしまうからです。
「言論の自由」は、なぜ「自由」なのか
──「問いが必要」「現状に疑問を持つ」などと書かれている啓発本をよく見ます。それ自体はその通りなのですが、実行するとなるといろんな意味で「乱れ」が生じますよね。
古賀:その言い方もテンプレ化していますよね。でもやっぱりそうなんですよ。ものごとが決まりかけたときに「でもやっぱり...」と誰かが言い出すってめんどくさい。決定権のない人たちがいろいろ言っても現実は変わらないことが多い。法律でもなんでも、何かが決まっていくとき、様々な声が上がりながらも、だいたいは押し切られて決まっていく。
では声を上げても無力なのか、というと全くそんなことはない。それは確実に「効く」のです。
こんなことを最近よく考えます。「言論の自由」というけれど、なぜ「自由」なのか。責任がないからなんですよね。現実を直接変える必要がないから。現実を変えることに無力だから、好き勝手なことを言えるわけです。言うことを現実に直結させる権力者は、自分の言うことに責任を持たなければならない。となると、自由にものなんて言えなくなるわけです。これに対して、決定権を持たない人の言論の無責任さは、間接的に現実に「効く」。
ものごとの決定に直接は関わらないけれど、何かを言うことで別の可能性を「栄養」のようなかたちで養っておく。それもまた、現実をある仕方で確実に変えていくんですよ。
これを技術におきかえると、技術がものごとを現実化する力を持つとしたら、技術への批評や評論は、間接的ではありながら、そこに大きな影響を与えていく、と思うんですよね。
米軍ハウスを作り直して暮らすわけ
古賀:僕は今、米軍ハウスをリノベーションして暮らしています。この一帯は戦前、飛行場だったのですが、戦後は米軍の空軍基地(キャンプ・ハカタ)として収用されました。その周りに米兵用の家が建てられたんですね。
20年ほど、建築や造園関連の学科に所属していたのですが、建築にうんざりするようになりました。そこに創造性がないと思ったんです。有名な建築家の建物を見ても心に響かないし、むしろ圧迫を感じます。「作ってやったぜ、オレが、すごいだろ」みたいな。