ブラック・パンサーの敗北がBLM運動に突き付ける教訓
THE LONG HISTORY BEHIND BLM
「革命」を公言した代償
フーバーは1969年に、ブラック・パンサーを「国家の安全保障の最大の脅威」と名指しした。ブラック・パンサーの表向きの目的は、メンバーや市民を自衛のために訓練して、そのような権利の正当性を教育すること。学校で朝食を無料で提供すること。医療と教育を提供し、自分たちの選挙権を要求することだった。
ただし、少なくとも当局や権力者から見ると、この組織には邪悪な顔もあった。1つには、彼らは革命を主張していた。公式には非暴力を掲げていたが、抗議活動に参加するメンバーが武装していたことは、彼らのイメージを損なった。
1968年9月、ブラック・パンサーの共同設立者ヒューイ・ニュートンが警察官の死に関与したとして、故殺で有罪判決を受けた。控訴審で判決が覆されるまで23カ月間、彼は刑務所で過ごした。もう1人の共同設立者ボビー・シールも、ブラック・パンサーに潜入していた警察の情報提供者を殺害したとして起訴された。裁判は評決不能に終わり、控訴審は、公平な陪審員を見つけることが不可能だという理由で棄却された。
サトゥル・ネッドことジェームズ・モットは、カリフォルニア州サクラメント在住の学生だった1967年に、街頭を行進するブラック・パンサーの設立者グループを見ていた。
その1年後、キング牧師が暗殺された数日後に、19歳のサトゥルはブラック・パンサーに入った。彼を駆り立てたのは、キングの死だけではなかった。暗殺事件からわずか2日後の1968年4月6日、オークランド警察との衝突の最中に、ブラック・パンサーの17歳の会計係ボビー・ハットンが銃殺されたからだ。
「突然、目覚めた。どうして彼が? そう思ったんだ」と、現在71歳のサトゥルは語る。「ジョージ・フロイドの状況と似ている。どうして彼らは(ハットンに)こんなことをしたのか? 彼が何かをして、だから殺されたというのか?」
ブラック・パンサーは早くからオークランド警察の蛮行に注目していた。「彼らが、人間である私たちを攻撃することが許せなかった」と、サトゥルは言う。
オークランド警察の仕事と白人至上主義団体KKK(クー・クラックス・クラン)は「直結しているも同然で」「コミュニティーの占領軍」のようになっていたことに、ブラック・パンサーは焦点を当てた。警察は白人至上主義者を引き入れて採用していたと、サトゥルは言う。「白人至上主義者にしてみれば夢のような仕事だった。誰かを残虐に処刑した警官が、翌日は街を歩いていた」