在日韓国人になる
くりかえすが、政治的権利を別にすれば在日と日本人の権利の差異は小さくなっている。移民研究者のクリスチャン・ヨプケは、「外国人が市民に近似してくると、外国人の権利は〔国民の〕シティズンシップを価値の薄いものへと現に変えてしまう」と指摘する(遠藤乾ほか訳『軽いシティズンシップ』岩波書店、二〇一三年、四八頁)。
とすれば、その価値の相対化に怒る排外主義者のターゲットとして在日が槍玉にあがるのは、まったくありがたくはないが目出度いことなのだろう。ジャイアンの権利や地位は絶対のはずなのに、あたかもジャイアン本人と瓜二つの権利をのび太が持っている。「のび太のくせに生意気だ!」との排外主義者の鬱憤の末路が、根拠なき「在日特権」だといえよう。日本人と在日の姿が似てきたことで、彼らは自己と他者の相違をことさら強調するようになった。特権とされる在日の通称名や特別永住権は歴史的事情にかんがみて公に設けられたもので、前者などは元来日本人の側も使用を推奨してきた。これらを特権と呼ぶのは、曲解の芸当でしかない。
在日の役割――死なないための歴史と未来
在日のイメージは内と外で正反対である。在日は自らを歴史の清算がすんでいないことによる犠牲者と考える傾向にあるが、排外主義者は不当な特権を持つ汚い奴らとみなす。
前者は自らと日本国民の権利が似かよってきたことを認めにくく、その地位を過小評価しがちである一方、後者は在日という異物の存在を過大評価し駆除しようとする。こうしたイメージはどちらも的はずれである。在日の数は「朝鮮」籍、韓国籍とも毎年減っており、在日に利権をむさぼられているとの言は当たらない(駆除対象の外来種というより、絶滅危惧種と想定するほうがまだ近いだろう)。
一方、たとえば多様なニューカマーの移民、ましてや外国人技能実習生に比しても、在日が勝ちとってきた社会的・経済的権利が充実しているのは事実だろう。では、日本の少数派の一先駆としての在日は、日本人やますます多様化する別の少数派たちとともに何ができるのか。韓国の歴史家林志弦(イムジヒヨン)は、「世襲的犠牲者意識」をナショナリズムと結びつけた韓国人が、虐げられた過去を「神聖化」し、日本人を「世襲的加害者」ととらえ続けることを批判する。