殺りくの号砲響かせた「バランギガの鐘」 117年ぶりに米国からフィリピンに返還
殺りくの号砲響かせた「バランギガの鐘」が117年ぶりに帰国した Erik De Castro-REUTERS
<かつて敵味方に分かれて血みどろの闘いをした米国とフィリピン。当時の「戦利品」が里帰りしたのは政治的な配慮があった>
米国が1901年にフィリピンでの米比戦争の際に「戦利品」として持ち去った「バランギガの鐘」と呼ばれるキリスト教会の3つの鐘が12月11日、117年ぶりに故郷フィリピンに返還された。
国の歴史的な遺産であると返還を長年望んできたフィリピンでは、この鐘返還のニュースは大きく伝えられ、国民は「故郷に戻った鐘」を歓迎した。
米ワイオミング州内のワレン空軍基地に保管されていた2つと、韓国の米軍基地にあった1つの計3つの鐘は、米軍のC130輸送機で11日にマニラのビラール空軍基地に到着した。
多くの報道陣が待ち構える中、輸送機から梱包されたまま卸された鐘は、米比両軍の兵士らによって梱包が解かれ、クレーンで吊り上げられてその姿を現した。その瞬間、周囲の関係者からは大きな拍手が起きた。
その後3つの鐘は横一列に並べられ、その前で米比両政府、両軍関係者による返還セレモニーが行われた。
米国防省関係者やフィリピンのデルフィン・ロレンザーナ国防長官などが出席して行われた返還式典ではスン・キム在フィリピン米大使が「この鐘は自由のために闘った勇敢なフィリピン人たちを想起させるものである。両国は第2次世界大戦や朝鮮戦争をともに戦った関係である。その関係が今日の鐘の返還に反映されている。実に長い時間と長い道のりがかかったが、鐘は今ようやく故郷にもどった。この鐘の返還は米比両国のさらなる友好関係と固く結ばれた絆の象徴である」と述べた。
キム大使とロレンザーナ国防相は両国の国旗が飾られたデーブルに向かい合わせで座り、鐘返還に関する書類に署名し、鐘のフィリピンへの返還が正式なものとなった。
虐殺の引き金となった歴史的な鐘
19世紀末、スペインに代わってフィリピンを支配しようとした米軍は、米比戦争(1899~1902)でフィリピンの武装組織の掃討に手を焼いていた。1901年9月28日、フィリピン中部サマール島バランギガで行軍中の部隊がフィリピン人組織に待ち伏せ攻撃を受け、米兵48人が殺される事件が起きた。
これに対し、当時の米司令官はバランギガを中心とするサマール地方で「報復」攻撃と10歳以上の男子の殺害を命じ、その被害者は数千人とも数万人ともいわれる虐殺が行われた。「10歳以上の男子」が殺害の対象になったのは、ライフル銃を使える年齢ということで決められたという。
この虐殺事件の発端となったフィリピン側の米軍奇襲攻撃で、合図として一斉に打ち鳴らされたのが今回返還された教会の鐘で、通称「バランギガの鐘」といわれている。