ウイグル絶望収容所で「死刑宣告」された兄を想う
グルジャ市(伊寧市)で郵便局を勤めた父の下、5人きょうだいの一番下の弟に生まれたヌーリ氏にとって、タシポラット氏は背が高く、バレーボールが得意で学業も優秀な自慢の兄だった。タシポラット氏は体育専門学校に進まないかと誘われるほどバレーボールが優秀だったが、学問の道を選び新疆大学に進学。卒業後、新疆大学で教授を勤めた後、吉林省長春市の日本語学習機関で日本語を学び、東京理科大学大学院(修士・博士課程)へ留学した。
同じく新疆大学文学部を卒業したヌーリ氏は90年に兄の後を追って日本へ。当時、日本に暮らすウイグル人は数えるほどしかおらず、2人は助け合いながら異国の地で学生生活を送った。理系の兄は国費留学だったが、文学専攻の弟は私費留学だった。居酒屋でアルバイトをするつましい生活の中、兄とカラオケを歌いに行き、日本の歌で日本語を練習したのがヌーリ氏の東京の思い出だ。
「もう連絡はしない」
兄のタシポラット氏は93年に先に帰国し、ヌーリ氏は99年まで東京外国語大学や埼玉大学で学生生活を送った。しかし、97年に自治区グルジャ市で反政府デモと弾圧事件が発生。ヌーリ氏は中国に帰ることを諦め、日本で政治亡命を認められる見込みもないためアメリカに出国し、以後20年以上アメリカで生きてきた。現在はバージニア州に暮らし、建設業などで生計を立てながら、東トルキスタンの独立運動に関わっている。アメリカでは日本料理屋も経営し、知人たちは彼のことを「ヌーリ・寿司」と呼んでいる。
ウイグル人とはいえ、新疆大学の学長を務める兄は国外で独立運動に関わってきたヌーリ氏にとって「体制側」の人間だ。兄とあえて距離を置き、長年連絡も取らなかった。直接言葉を交わしたのは、01年にアメリカにやって来た時に少しだけ会ったのが最後だ。「兄の目で見たら私は分裂主義者だ」と、ヌーリ氏は言う。「我々は話し合った。私は帰らない。兄さんはウルムチで頑張って欲しい。もう連絡はしない、と」