歴史で読み解く米朝交渉──神戸、金沢での経験を経て
北朝鮮当局者が金沢で投資を呼びかけた意味
その後、石川県の支局に異動して企業を担当していた私は、再び北朝鮮と巡り合うことになります。96年のことだったと思うのですが、金沢商工会議所にある経済記者クラブに突然、北朝鮮からの代表団がやってきて羅津・先鋒自由経済貿易地帯への投資を呼びかけたのです。
会見したのは、金日成(キム・イルソン)バッジを胸に付け、揃いの紺のスーツを着てロボットのように機械的な動きをする北朝鮮当局者2人。石川県の経済界はロシア沿海地方、中国東北部、韓国、北朝鮮、日本の日本海側で経済発展を目指す「環日本海経済圏構想」を推していたとはいえ、なぜ北朝鮮が石川に?と疑問に思いました。
当時は94年に第1次核危機がジミー・カーター元米大統領と金日成主席の会談で回避され、黒鉛減速炉の稼働を停止する代わりに軽水炉建設と重油提供を受ける米朝枠組み合意が結ばれた後。米朝歩み寄りの時代でした。
楽観論を背景に、中国の改革開放にならって外国投資を経済特区に呼び込む動きが北朝鮮で活発化しており、突然の北朝鮮代表団の石川県訪問はその一環だったのです。しかし、石川県の企業が北朝鮮に進出したとは聞かないまま、国連制裁が始まって投資どころではなくなりました。
98年8月には、北朝鮮がテポドン1号を日本海に向けて発射。1段目が日本海に落ちたと伝えられたため、金沢の民放テレビ局の記者が「今から輪島に行ってくる!」と慌てて石川県庁の記者クラブを飛び出して行きました。
実際に1段目が落ちたのは北朝鮮沖180キロで、日本海の先端に位置する輪島市からでも到底見えない場所なのですが、「見えなかった」「怖い」という沿岸住民の証言映像がきっとテレビ的には必要だったのでしょう。
北朝鮮がテポドン発射に踏み切ったのは、米朝枠組み合意で約束されたはずの軽水炉建設が遅々として進まないことへの苛立ちからでした。
その後、ジョージ・W・ブッシュ米大統領による「悪の枢軸」発言で両国関係は悪化。危機回避のための6者協議が03年に始まりましたが、話し合いはこう着状態に陥り、金正恩(キム・ジョンウン)に代替わりした北朝鮮はその後、核実験とミサイル発射実験にのめり込んでいきます。
北朝鮮にもアメリカにも不変の行動原理がある
ニュースの最前線にいると、あまりに取材対象に近すぎるために事件や問題の全体像が見えなくなることがよくあります。北朝鮮の核・ミサイル問題はその典型で、それぞれ大きなニュースであるがゆえに全体のコンテクスト(文脈)の中でどんな意味合いがあり、何を示唆しているのかを見失いがちです。
30年以上続いた核をめぐる米朝交渉の本質を理解する近道は、歴史を俯瞰的に見ること。第1次から第3次までの核危機を「鳥の目」で見れば、北朝鮮とアメリカに変わらないいくつかの行動原理があることが分かります。
本誌6月19日号(6月12日発売)「米朝会談 失敗の歴史」特集では、金正男(キム・ジョンナム)インタビューのスクープで知られ、米朝交渉を長年取材してきた五味洋治・東京新聞論説委員が「不信と裏切りの米朝交渉30年史」を寄稿。北朝鮮とアメリカの変わらない行動原理について、交渉の歴史を踏まえながら詳細に分析しました。
また厳しい国際包囲網の中、なぜ北朝鮮が核・ミサイル開発を続けることができたのか。経済制裁の有効性について古川勝久・国連安全保障理事会北朝鮮制裁委員会専門家パネル元委員のインタビューも掲載しています。
6月12日の会談だけで「非核化・改革開放」という結論に達するのは、ドナルド・トランプ米大統領自身も認めているように不可能でしょう。
今回の交渉のポイントはアメリカの大統領が北朝鮮ばりの瀬戸際戦術を厭わない人物で、米朝首脳の「役割」がこれまでと反対になる可能性があること。ただし、過去30年間の米朝それぞれの行動原理は今回も変わらないはずです。
であれば、終戦宣言・平和宣言と核・ミサイル凍結、そして体制保証の議論の入り口に立つ、あるいは大枠で合意するのが精一杯。北朝鮮の完全非核化も「第2の改革開放」の実現も、相当長い道のりになることは間違いありません。
シンガポールに着いたトランプは金正恩が真剣か「1分で分かる」と不気味なコメントをしていますが......。
<歩み寄りと武力行使の危機が繰り返された、米朝交渉30年の歴史から見える「未来」――。本誌6/19号(6月12日発売)は「米朝会談 失敗の歴史」特集です。3度も戦争の瀬戸際に立った米朝の交渉から首脳会談の行方を読み解き、北朝鮮が制裁を受けながら核開発を続けられた理由を制裁担当者が語る。そもそも核の抑止力は本当に有効なのか、インドの経験も紐解きます>