日本政府はなぜ中朝首脳会談を予見できなかったのか
その後回復した金正日は、まるでこの時「仁義」を欠いたことを埋め合わせるかのように、無理を押して2010年から二度も訪中を強行し、死去寸前まで中朝首脳会談を行おうと努力し続けた。
金正日が埋め合わせをした訪中
金正日の体調不良に配慮して、まず2008年6月に当時の習近平国家副主席が平壌を訪問し、胡錦濤の親書を金正日に手渡した。続いて2009年10月に、当時の温家宝首相が平壌を訪問して、やせ細ってしまった金正日を慰問している。
脳卒中から何とか回復した金正日は、2010年8月に訪中し胡錦濤と会談した。そしてこの吉林省や黒竜江省および江蘇省揚州を視察している。
吉林省では長春にも立ち寄っているのだが、このとき筆者は、自分の生まれ故郷である長春市の大学の学長から招聘を受けていて、胡錦濤が宿泊していた同じ賓館に、ちょうど宿泊していたというあまりに偶然の経験をしている。したがって、この前後の金正日の動きと中国側の対応を、目の前で見ており、印象が深い。
最後の中国への公式訪問は2011年5月。
逝去はその7カ月後の2011年12月だった。死去寸前まで訪中して、2007年第二回南北会談に際しての仁義の欠如を補おうとしていた。
第三次南北首脳会談前の「仁義」
こうして、第三次南北会談が今年4月に行われようとしているのだから、当然のことながら、会談前の仁義を切ることは十分に予見できたはずである。
それも、金正恩が南北首脳会談を行うと示唆したのは3月1日だ。
3月5日からは中国では全人代(全国人民代表大会)が始まっている。会期は3月20日まで。
その間に南北首脳会談は4月に行われると南北で合意がなされていた。
となれば、もし金正恩が訪中するとなれば、3月21日から3月31日までの10日間しかない。
ピンポイントで絞られていた金正恩の訪中時期
つまり金正恩が仁義を切るために訪中する時期というのは、3月21日から31日の間という、ピンポイントで絞られていたはずだ。
だから筆者は3月27日のコラム「金正恩氏、北京電撃訪問を読み解く――中国政府高官との徹夜の闘い」で書いたように、3月27日の早朝の時点で、「訪中している北朝鮮要人は金正恩だ」と、「断定形」で書いてしまったのである。
それは、以上のような1992年以来の動きを観察してきた「直感」あるいは肌感覚のようなものが決断を促したのだったが、それでも万一間違えたら、これで社会生命を失うと、内心は怖かった。コラムを発表してから、韓国および中国の公式発表があるまで、生きた心地はしなかった。他のメディア同様、なぜ「金正恩か」と「か」を入れなかったのかと自責の念にさいなまれた。それだけに、やはり金正恩だったと判明した時には、もう他のことはどうなってもいいと思うほどに安堵したものだ。