最新記事

日本

文部省教科書『民主主義』と尾高朝雄

2017年9月13日(水)18時44分
苅部 直(東京大学法学部教授)※アステイオン86より転載

ferrantraite-iStock.

<2015年の安保法制をめぐる騒動以来、「立憲主義」や日米安保体制に関する本が多く刊行されてきたが、そのなかで眼を惹いたのが1948年~53年度の社会科教科書『民主主義』の新版の増刷だ。実はこの本、法哲学者の尾高朝雄が作成に大きな役割を果たしており、そこで展開されている洞察は、21世紀の現代、ますます重要な意義を持っている>

 二〇一五(平成二十七)年の安保法制をめぐる騒動については、まだ記憶に新しい読者も多いだろう。集団的自衛権の行使を可能にする立法措置をめぐって、国会で激しい論戦が闘わされ、デモ隊が議事堂や首相官邸をとりまいた。メディアによっては「二〇一五年安保」と、かつての一九六〇(昭和三十五)年における反対運動の再来を期待するような表現まで見られたが、法案それ自体は粛々と成立したのは、周知のとおりである。

 論争の波及効果として、そのころから現在に至るまで、「立憲主義」や日米安保体制に関する本が続々と刊行されたり復刊されたりしている。その内訳は「石」が大部分を占める玉石混淆としか言いようがないが、国家体制の根本にかかわる問題を考えるための材料が豊かになったのは、やはりありがたいことである。

 そのなかで、一九四八(昭和二十三)年と翌年に、文部省を著作兼発行者として刊行された『民主主義』上下の新版が久々に増刷されたのが眼を惹いた。もともとは発行時から一九五三(昭和二十八)年度まで、高校の教科書、中学三年の参考教材として使われた社会科教科書である。それが径書房から上下巻を合本した新版として刊行されたのが一九九五(平成七)年八月。その刊行も、戦後五十周年という機会や、一九九〇年代初頭に与野党間で巻き起こった改憲をめぐる議論を承けたものであっただろう。その第九刷が、二〇一五年八月に刊行されている。

 第九刷に付された帯には安保法制デモで活躍した作家、高橋源一郎のコメントが印刷されており、「二〇一五年安保」をあてこんだ増刷であったことが、明らかにうかがえる。そして同じ帯には『民主主義』を文部省が刊行した経緯について、こう記されている。


「一九四六(昭和二十一)年、連合軍総司令部(GHQ)より要請を受けた日本の文部省(現文部科学省)は、憲法学者の宮沢俊義(東京帝大教授当時)らと委員会を構成。一九四八(昭和二十三)年に、中学・高校用教科書として本書を発行した。/執筆陣は、経済学者で後の東大学長・大河内一男、法学者の尾高朝雄(東京帝大教授当時)、土屋清(朝日新聞論説委員当時)ら、そうそうたる面々。挿絵も当時の人気漫画家・清水崑ら。」

 この帯の記述は、径書房版の前の刷からあったのかもしれないが、書物の本体には解題・解説をいっさい載せず、帯で初刊の成立事情を書くというのは珍しい。『民主主義』作成の経緯については、一九九五年の新版刊行を報じる『朝日新聞』の記事(同年八月二十一日朝刊)で、片上宗二『日本社会科成立史研究』(風間書房、一九九三年)に見える見解が紹介されており、それによれば執筆者のうち尾高朝雄(おたかともお)が「全体をまとめた」という。尾高朝雄は、昭和の戦前期(一九二八〜三二年)にベルリン、ウィーン、フライブルクで学び、京城帝国大学教授を経て、一九四四(昭和十九)年から東京帝国大学教授を務めた法哲学者である。

【参考記事】小池都政に「都民」と「民意」は何を求めているのか

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

米高官、中国と北朝鮮巡り協議 強制送還への懸念表明

ワールド

トランプ氏、石油業界幹部に環境規制破棄を明言 10

ビジネス

英中銀、近いうちに利下げとの自信高まる=ピル氏

ワールド

ロシア軍の侵攻阻止可能、同盟国の武器供給拡大で=ウ
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:岸田のホンネ
特集:岸田のホンネ
2024年5月14日号(5/ 8発売)

金正恩会談、台湾有事、円安・インフレの出口......岸田首相がニューズウィーク単独取材で語った「次の日本」

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    「恋人に会いたい」歌姫テイラー・スウィフト...不必要な「プライベートジェット三昧」に非難の嵐

  • 2

    日本の10代は「スマホだけ」しか使いこなせない

  • 3

    休養学の医学博士が解説「お風呂・温泉の健康術」楽しく疲れをとる方法

  • 4

    ロシア軍兵舎の不条理大量殺人、士気低下の果ての狂気

  • 5

    上半身裸の女性バックダンサーと「がっつりキス」...…

  • 6

    「レースのパンツ」が重大な感染症を引き起こす原因に

  • 7

    テイラー・スウィフトの大胆「肌見せ」ドレス写真...…

  • 8

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

  • 9

    「高齢者は粗食にしたほうがよい」は大間違い、肉を…

  • 10

    総選挙大勝、それでも韓国進歩派に走る深い断層線

  • 1

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地ジャンプスーツ」が話題に

  • 2

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受ける瞬間の映像...クラスター弾炸裂で「逃げ場なし」の恐怖

  • 3

    屋外に集合したロシア兵たちを「狙い撃ち」...HIMARS攻撃「直撃の瞬間」映像をウクライナ側が公開

  • 4

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 5

    「恋人に会いたい」歌姫テイラー・スウィフト...不必…

  • 6

    外国人労働者がいないと経済が回らないのだが......…

  • 7

    テイラー・スウィフトの大胆「肌見せ」ドレス写真...…

  • 8

    「自然は残酷だ...」動物園でクマがカモの親子を捕食…

  • 9

    翼が生えた「天使」のような形に、トゲだらけの体表.…

  • 10

    「レースのパンツ」が重大な感染症を引き起こす原因に

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 4

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 5

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 6

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 7

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 8

    NASAが月面を横切るUFOのような写真を公開、その正体…

  • 9

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

  • 10

    「世界中の全機が要注意」...ボーイング内部告発者の…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中