最新記事

日本

文部省教科書『民主主義』と尾高朝雄

2017年9月13日(水)18時44分
苅部 直(東京大学法学部教授)※アステイオン86より転載

 尾高については、ハンス・ケルゼンやエトムント・フッサールなど、当時の最先端の法学・哲学・社会学の理論を総合した独創性や、植民地大学との関わりが、近年は研究者の注目を集めるようになっている。その尾高が『民主主義』の執筆に携わっていたということは、このたびの第九刷の帯で、初めて知った。

 東大と一橋大学の図書館には、『父・尾高朝雄を語る――久留都茂子インタヴュー記録』(二〇一二年三月)という自主刊行の冊子が寄贈されている。そこに収録された尾高の次女、久留都茂子の回想談によれば、『民主主義』の原稿は、当初執筆者全員が分担して書いたが、全体の統一がとれないので、改めて尾高が「マッカーサー司令部の人と二人で相談して」全体を書き起こした。尾高朝雄がこの教科書の作成においてはたした役割は大きかったのである。

 教科書それ自体は、中学生・高校生に対して「民主主義のほんとうの意味」(「はしがき」冒頭)について体系的に説き聴かせるという、オーソドックスな内容のものである。現在の高校教科書よりも詳しく、さまざまな論点にふみこんで説明しているので、径書房が新版を刊行したのも、いまでも教育現場で十分に使える質をもっているという判断からであろう。

 しかし、おそらくは尾高の考えを強く反映していると思われる特色があるのも、またたしかである。『民主主義』の第五章「多数決」には、「民主政治の落し穴」と題した一節がある。さしあたり尾高の作品として解しておくなら、そこで尾高は、政治上の対立を解決し、さしあたり一つの方針を決めるための「便宜的な方法」として多数決の意味を認めている。

 だが、「多数の意見だからその方が常に少数の意見よりも正しいということは、決して言いえない」。ドイツにおける「ナチス党」の政権獲得を例に挙げて、「多数を占めた政党に、無分別に権力を与える民主主義」の危険性を、尾高は民主政治の「落し穴」としてきびしく批判する。ナチスの擡頭を現地で見ていた尾高にとっては、強い実感をともなうエピソードであっただろう。いまはやりの呼び方をすれば、ポピュリズムに陥ったデモクラシーの危険性である。

 したがって「言論の自由こそは、民主主義をあらゆる独裁主義の野望から守るたてであり、安全弁である」と、自由を確保し少数意見を尊重することが、民主主義を「独裁主義」に転化させないための重要な手だてとなる。尾高はそう説き、民主主義者は「国家のためということを名として、国民の個人としての尊厳な自由や権利をふみにじることに対しては、あくまでも反対する」と論じた(第八章)。個人の自由と権利は、民意に基づいた正当な権力であっても、必ず擁護しなくてはいけない統治の目的なのである。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

ウクライナ2都市にロシアが攻撃、和平協議直後

ビジネス

乳児ボツリヌス症の集団感染、バイハート社の粉ミルク

ワールド

北朝鮮抑止「韓国が主な責任」、米国防総省が関与縮小

ワールド

トランプ政権のEVインフラ助成金停止は違法、米地裁
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:「外国人問題」徹底研究
特集:「外国人問題」徹底研究
2026年1月27日号(1/20発売)

日本の「外国人問題」は事実か錯誤か? 7つの争点を国際比較で大激論

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    海上自衛隊が水中無人機(UUV)を導入 中国の海軍拡張に新たな対抗手段
  • 2
    データが示す、中国の「絶望的な」人口動態...現実味を帯びる「超高齢化」による「中国社会崩壊」
  • 3
    麻薬中毒が「アメリカ文化」...グリーンランド人が投稿したアメリカを嘲笑する動画にネット爆笑
  • 4
    40代からは「積立の考え方」を変えるべき理由──資産…
  • 5
    ラブロフ、グリーンランドは‌デンマーク​の「自然な…
  • 6
    サーモンとマグロは要注意...輸入魚に潜む「永遠の化…
  • 7
    ニュージーランドの深海に棲む、300年以上生きている…
  • 8
    「これは違法レベル...」飛行機で「史上最悪のマナー…
  • 9
    トランプを支配する「サムライ・ニッポン」的価値観…
  • 10
    3年以内に日本からインドカレー店が消えるかも...日…
  • 1
    海上自衛隊が水中無人機(UUV)を導入 中国の海軍拡張に新たな対抗手段
  • 2
    防衛省が「新SSM」の映像を公開、ノルウェー・コングスベルグ社のNSMにも似ているが...
  • 3
    データが示す、中国の「絶望的な」人口動態...現実味を帯びる「超高齢化」による「中国社会崩壊」
  • 4
    ラブロフ、グリーンランドは‌デンマーク​の「自然な…
  • 5
    【銘柄】「古河機械金属」の株価が上昇中...中国のレ…
  • 6
    ニュージーランドの深海に棲む、300年以上生きている…
  • 7
    完全に「ホクロ」かと...医師も見逃した「皮膚がん」…
  • 8
    ピラミッドよりも昔なのに...湖底で見つかった古代の…
  • 9
    韓国が「モンスター」ミサイルを実戦配備 北朝鮮の…
  • 10
    40代からは「積立の考え方」を変えるべき理由──資産…
  • 1
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?【2025年の話題クイズ5選】
  • 2
    ウクライナ水中ドローンが、ロシア潜水艦を爆破...「史上初の攻撃成功」の裏に、戦略的な「事前攻撃」
  • 3
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 4
    中国製防空レーダーは米軍のベネズエラ攻撃に屈した─…
  • 5
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 6
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?【202…
  • 7
    「腸が弱ると全身が乱れる」...消化器専門医がすすめ…
  • 8
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」は…
  • 9
    前進するロシア、忍び寄る限界...勝者に見えるプーチ…
  • 10
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中