やはりマニラは厳しい都市だった
マラテ地区へ
マラテにはMSFのエクスパッツ(外国人派遣スタッフ)の宿舎があった。宿舎といってもハイチのような借りきりの家ではなく、ギリシャのようなアパートメントの一室でもなく、高層中級マンションの部屋だった。
タクシーを降りた俺と谷口さんは、まず近くのキャバレーみたいなものの前にソファがあり、そこに赤いミニワンピースの制服のようなものを来た若い女の子たちがずらりと座って「っしゃいませー」と高い声を張り上げるのを横目で見た。日本語の店名が看板にはあった。盛り場にしては他がコンビニ、薄暗い通常のホテルと行ったものしかなかった。謎の地区だった。
俺たちは目指すビルを守る警備員の横を通り、早くもクリスマスの飾りが目立ちつつあるフロントの女性に挨拶し、そのマンション内で活動責任者であるアメリカ人スタッフ、ジョーダン・ワイリーに会って鍵をもらうことになっていると彼女に説明した。
フロントからジョーダンに電話が行き、俺たちが目指す階がすぐに告げられた。そこで彼は奥さんと2人で俺たちを待っているそうだった。ガラガラと荷物を引いてエレベーターに乗り、目的階のボタンを押し、するすると上へ吊り上げられていくと、やがてドアが左右に開いた。
そこに背の高い、スキンヘッドで顎と鼻の下に短い髭を生やした屈強な男がいた。それがジョーダンだった。
「ナイス・トゥー・ミーチュー」
と握手を交わした俺だが、その横にいる彼の奥さんがあまりにもきれいなので半分現実感を失っていた。あとでエリンさんと名前のわかる、やはりアメリカ人の彼女はハリウッド女優よりも美しい印象で、しかも内面から何かが光る人物だった。
何か虚構の、つまり映画か何かのVRみたいなものに入り込んだような気に俺はなりつつ、ジョーダンの優しげな笑顔(キアヌ・リーブス似)にも魅入られながら彼らの導く部屋へついて行った。
そもそもミッションに夫婦で向かうということ自体、珍しいことであるはずだった。俺は羽田で谷口さんから、もうひと組(こちらはスペイン人と日本人)夫婦が滞在していると聞いていた。
しかも通常は半年から1年程度の任期が多いと聞いていたところが、ジョーダンたちの場合はそうではなかった。なぜかと言えば、そこでスタッフが挑戦している『リプロダクティブ・ヘルスに関わるミッション』と国の状況が他とは根本的に異なる性質を持っているからだった。
詳しいことはまた別の機会に話そう。
ともかく現実味のないくらい格好のいい2人に連れられて入った部屋には、さらに3つの部屋があり、リビングダイニングがあった。ただし、そのリビングには段ボール箱が積まれ、中に注射器や保存用の水が入っていた。ミッションに使う道具もまた、その部屋には置かれていたのである。
ジョーダンは俺たちにそれぞれ小さなビニールの袋を渡した。中には部屋の鍵、主要スタッフ全員の役職と名前と電話番号が表になったコピー用紙が入っていた。
その説明を軽くしながら、同じマンションに住んでいることをジョーダンは教えてくれた。他のスタッフもそこにいるし、近くのマンションにはまた別のスタッフたちがいることもわかった。
彼らスタッフが集まるマラテ地区は観光客には評判のあまりよくない場所だが、決して危ないところではないとジョーダンは言った。ただし、ジョーダンは俺たちがこれから取材で連日訪れることになるスラム地区でさえ「言われるほど危険ではない。住人はきわめて親切なんだよ」と評価するのだが。
翌日の早朝、ビルの下にMSFの日々の迎えの車が来ることをジョーダンは俺たちに丁寧に告げ(迎えが来ること自体がある種のリスク回避なのだが)、にこやかなエリンと仲よく去っていった。