黒田日銀の異次元金融緩和は「失敗」したのか
なぜインフレが必要か
現代の中央銀行の多くは、目標として設定された物価指標や物価上昇率に多少の相違はあるが、このインフレ目標という枠組みに基づいて金融政策を運営している。日銀の場合には、「消費者物価指数(除く生鮮食品)の前年比上昇率の実績値が安定的に2%を達成」することが目標とされており、これは他の先進諸国の中央銀行においてもほぼ同様である。この「2%」というインフレ率の目標水準は、先進諸国ではほぼスタンダードとなっている。これは、現代の中央銀行は、マイナスのインフレ率である「デフレ」はもとより、0%や1%といった「低すぎるインフレ率」も望んでいないということを意味する。
上述のように、高いインフレ率それ自体は、人々がより豊かになることをまったく意味しない。実際、人々が望むのは、より高い所得であって、より高い物価ではない。物価が高くなることそのものは、所得が増えない限り人々を実質的により貧しくするのであるから、それは当然である。メディアの報道においても、庶民の生活を脅かすものとして常に問題視されてきたのは、デフレではなくてインフレであった。
にもかかわらず中央銀行は、0や1ではなく、2%というインフレ率を求める。それは、最も上位の政策目標である「望ましい雇用や所得の確保」が、0%や1%といった低インフレでは実現できないからである。当然ながら、その目標はデフレではなおさら実現できない。
そのことの意味は、「フィリップスカーブ」として知られる、失業率とインフレ率との間に成り立つ相関関係から明らかになる。図1は、日本にデフレが定着しつつある頃に、それが何を意味するのかを先駆的に論じた原田泰・岡本慎一「水平なフィリップスカーブの恐怖-90年代以降の日本経済停滞の原因」(『週刊東洋経済』2001年5月19日号)に描かれていた、日本のフィリップスカーブである。
それは、きわめて重要な二つの経験的事実を示している。第1は、インフレ率が1%を下回ると失業率が急激に上昇し始めることである。これが、原田・岡本の言う「水平なフィリップスカーブ」である。第2は、失業率が2%半ばを越えると、インフレ率が2%を越えて急激に上昇し始めることである。逆にいえば、インフレ率が2%を越えても、失業率はほとんど低下しない。この「2%半ば」というインフレ率を加速させない失業率の閾値は、インフレ非加速的失業率、英語の略称ではNAIRU(Non-Accelerating Inflation Rate of Unemployment)と呼ばれている。これは、事実上の完全雇用を意味すると考えられる。
このNAIRUの値は、労働市場の制度的要因に左右されるため、国ごとに異なるし、同じ国でも時期によって異なる。重要なのは、そのNAIRU値がいくらであるにせよ、その「インフレを加速させない下限」である失業率に到達するためには、0%や1%ではなく、ましてやデフレではなく、少なくとも2%程度のインフレが必要ということである。それは、一般に賃金には名目的な硬直性があるため、ある程度のインフレ率がないと雇用の調整が阻害されるためと考えられる。