ギリシャの『国境なき医師団』で聞く、「今、ここで起きていること」
「だから我々は政治がどうであるかに関わらず支援をします。EUが知らないふりをしていても、現実に対応するべきだからです。私たちは医療や心理のケアを提供し、毛布を運び、食べ物を送り、シャワーを用意し、トイレを設置し、同時にEUの大使たちにどう働きかけて状況を好転させるか試行錯誤しているところです」
と、ここで今度はマリエッタさんの表情が曇った。とても感情がわかりやすい人だった。不屈がベースだが、その上で動く気持ちを隠すことのない女性であった。
対岸トルコからゴムボートで来る難民のことを、マリエッタさんは話し出した。
彼らは密航業者に大金を払ってゴムボートに乗るが、操作を教えられずに海へ押し出されてしまう。エンジンが壊れていたり、油が入っていないことなどざらだ。それでも彼らはヨーロッパにたどり着きたくて必死になる。
船は風や乗員オーバーで容易に転覆する。または穴が空いて沈む。
難民たちはあらかじめ子供たちを守ろうと、小さな者たちを船の真ん中に乗せる。
しかし非情なことに、船が壊れ始めるとそここそが弱い。水が溜まってゆく。船底が割れる。その上、彼らはニセのライフジャケットを買わされていることさえある。海に投げ出されてしまえば、自力で泳ぐしか生きている方法がない。
子供たちはまだ水泳を知らない。
「それが沖に見えるんです。しかし助けることが出来ない。すぐに船は沈んでしまう。そして海岸に子供の死体が上がります。自分の子供を遊ばせていたビーチに、誰かの子供の溺死体が流れ着く」
マリエッタさんは深く息を吸って言った。
「これが今、ヨーロッパで起きていることです」
そのあと、もし生きてギリシャにたどり着けても、という話をマリエッタさんはした。暑くても寒くても彼らは歩き続けたのだった。ギリシャの南端あたりに着けば、東側の海岸沿いをひたすら北へ北へと。彼らはすでに自国を出る時から、すさまじい距離を踏破していた。そして途中の国境で突然、軍隊に押し返されたのだ。「EU-トルコ協定」が決まったから、と。
【参考記事】EU-トルコ協定の意義と課題
ヨーロッパの中で今、100万人以上が流浪の身でいることを想像してみて欲しい、とマリエッタさんは言った。目のふちに涙が浮かんでいた気がするが、彼女は顔を伏せることはなかった。
彼女が話している事態はのちの世界史に必ず特記される大問題だと俺は思ったが、果たしてそれは解決した上でだろうか、それとも延々と出口のない難問であり続けるのだろうか。
「EUとトルコは資金援助と難民の移動の制限に合意し、協定を結びました。けれど問題はそれでは解けないんです。ですから私たちMSFは『EUートルコ協定』に抗議をし、EUからの資金援助を断ることを決めました」
決然とマリエッタさんは言った。
俺は腹の底から息を吐いた。
こういう人間がいてくれることが、尊厳そのものではないか。
だから弱い者の尊厳が守られるのではないか。
そう俺は思ったのだった。
ではなぜ彼らは他者の尊厳をそのように自然に尊重出来るのか。
俺はギリシャでそのことをずいぶんあれこれ考えることになるが、ここで報告を少し休もう。
カタール航空ドーハ発羽田行きQR813では飲み物が配られ出したから。
オレンジジュースでも飲んで、俺はいったん落ち着くことにする。
こういう時に酒はだめだ。いい酔い方にならない。
(つづく)
いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。