最新記事

難民支援

ギリシャの『国境なき医師団』で聞く、「今、ここで起きていること」

2016年9月7日(水)17時05分
いとうせいこう

 「だから我々は政治がどうであるかに関わらず支援をします。EUが知らないふりをしていても、現実に対応するべきだからです。私たちは医療や心理のケアを提供し、毛布を運び、食べ物を送り、シャワーを用意し、トイレを設置し、同時にEUの大使たちにどう働きかけて状況を好転させるか試行錯誤しているところです」

 と、ここで今度はマリエッタさんの表情が曇った。とても感情がわかりやすい人だった。不屈がベースだが、その上で動く気持ちを隠すことのない女性であった。

 対岸トルコからゴムボートで来る難民のことを、マリエッタさんは話し出した。

 彼らは密航業者に大金を払ってゴムボートに乗るが、操作を教えられずに海へ押し出されてしまう。エンジンが壊れていたり、油が入っていないことなどざらだ。それでも彼らはヨーロッパにたどり着きたくて必死になる。

 船は風や乗員オーバーで容易に転覆する。または穴が空いて沈む。

 難民たちはあらかじめ子供たちを守ろうと、小さな者たちを船の真ん中に乗せる。

 しかし非情なことに、船が壊れ始めるとそここそが弱い。水が溜まってゆく。船底が割れる。その上、彼らはニセのライフジャケットを買わされていることさえある。海に投げ出されてしまえば、自力で泳ぐしか生きている方法がない。

 子供たちはまだ水泳を知らない。

 「それが沖に見えるんです。しかし助けることが出来ない。すぐに船は沈んでしまう。そして海岸に子供の死体が上がります。自分の子供を遊ばせていたビーチに、誰かの子供の溺死体が流れ着く」

 マリエッタさんは深く息を吸って言った。


「これが今、ヨーロッパで起きていることです」

 そのあと、もし生きてギリシャにたどり着けても、という話をマリエッタさんはした。暑くても寒くても彼らは歩き続けたのだった。ギリシャの南端あたりに着けば、東側の海岸沿いをひたすら北へ北へと。彼らはすでに自国を出る時から、すさまじい距離を踏破していた。そして途中の国境で突然、軍隊に押し返されたのだ。「EU-トルコ協定」が決まったから、と。

【参考記事】EU-トルコ協定の意義と課題

 ヨーロッパの中で今、100万人以上が流浪の身でいることを想像してみて欲しい、とマリエッタさんは言った。目のふちに涙が浮かんでいた気がするが、彼女は顔を伏せることはなかった。

 彼女が話している事態はのちの世界史に必ず特記される大問題だと俺は思ったが、果たしてそれは解決した上でだろうか、それとも延々と出口のない難問であり続けるのだろうか。

 「EUとトルコは資金援助と難民の移動の制限に合意し、協定を結びました。けれど問題はそれでは解けないんです。ですから私たちMSFは『EUートルコ協定』に抗議をし、EUからの資金援助を断ることを決めました

 決然とマリエッタさんは言った。

 俺は腹の底から息を吐いた。

 こういう人間がいてくれることが、尊厳そのものではないか。

 だから弱い者の尊厳が守られるのではないか。

 そう俺は思ったのだった。

 ではなぜ彼らは他者の尊厳をそのように自然に尊重出来るのか。

 俺はギリシャでそのことをずいぶんあれこれ考えることになるが、ここで報告を少し休もう。
 カタール航空ドーハ発羽田行きQR813では飲み物が配られ出したから。
 オレンジジュースでも飲んで、俺はいったん落ち着くことにする。

 こういう時に酒はだめだ。いい酔い方にならない。

ito0907_2.jpg

ブリーフィングのあとのマリエッタさんの部屋


(つづく)


profile-itou.jpegいとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

韓国尹大統領に逮捕状発付、現職初 支持者らが裁判所

ワールド

アングル:もう賄賂は払わない、アサド政権崩壊で夢と

ワールド

アングル:政治的権利に目覚めるアフリカの若者、デジ

ワールド

アングル:フィリピンの「ごみゼロ」宣言、達成は非正
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:トランプ新政権ガイド
特集:トランプ新政権ガイド
2025年1月21日号(1/15発売)

1月20日の就任式を目前に「爆弾」を連続投下。トランプ新政権の外交・内政と日本経済への影響は?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼いでいるプロゲーマーが語る「eスポーツのリアル」
  • 2
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べている」のは、どの地域に住む人?
  • 3
    「搭乗券を見せてください」飛行機に侵入した「まさかの密航者」をCAが撮影...追い出すまでの攻防にSNS爆笑
  • 4
    感染症に強い食事法とは?...食物繊維と腸の関係が明…
  • 5
    女性クリエイター「1日に100人と寝る」チャレンジが…
  • 6
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 7
    失礼すぎる!「1人ディズニー」を楽しむ男性に、女性…
  • 8
    フランス、ドイツ、韓国、イギリス......世界の政治…
  • 9
    本当に残念...『イカゲーム』シーズン2に「出てこな…
  • 10
    オレンジの閃光が夜空一面を照らす瞬間...ロシア西部…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 3
    睡眠時間60分の差で、脳の老化速度は2倍! カギは「最初の90分」...快眠の「7つのコツ」とは?
  • 4
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼い…
  • 5
    メーガン妃のNetflix新番組「ウィズ・ラブ、メーガン…
  • 6
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲う…
  • 7
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べて…
  • 8
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 9
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 10
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    大腸がんの原因になる食品とは?...がん治療に革命をもたらす可能性も【最新研究】
  • 3
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 4
    夜空を切り裂いた「爆発の閃光」...「ロシア北方艦隊…
  • 5
    インスタント食品が招く「静かな健康危機」...研究が…
  • 6
    TBS日曜劇場が描かなかった坑夫生活...東京ドーム1.3…
  • 7
    「涙止まらん...」トリミングの結果、何の動物か分か…
  • 8
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 9
    「戦死証明書」を渡され...ロシアで戦死した北朝鮮兵…
  • 10
    「腹の底から笑った!」ママの「アダルト」なクリス…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中