沖縄の護国神社(4)
五十年前、沖縄中から支援されて社殿の復興が成った頃、遺族会や護国神社奉賛会は「靖國神社の護持は国家で、護国神社の護持は各都道府県で」をスローガンに掲げた。戦没者を合祀する神社は昔のように国や県で護持すべきだ、神社の経費に政府の補助がないのは嘆かわしい、と。この方針も、いつしか後退した。
二〇一五年六月、沖縄戦から七十年目の「慰霊の日」、沖縄県護国神社の慰霊祭に来賓として招かれた靖國神社宮司・德川康久は、祭典後の講演会で「靖國神社はもはや国家護持を目指していない」と明言した。松平永芳宮司の頃から続く路線だが、メディアもいる会場での言葉は貴重である。国家護持をすると国家体制が変わるたび神社が翻弄される、神社の目的が戦没者の慰霊と平和の祈念である以上、変わる可能性のある国家に依存すべきではない、というのが理由である。十五代将軍の曾孫の言葉として聞くと、とりわけ説得力がある。
毎年三月に開かれる全国護国神社宮司会でも、「普通の神社」になることが話題になる。靖國神社のさる幹部が発明したレトリックは、「あらゆる職業だった人が神様になったので、あらゆる人の守り神です。一番身近な神様です」というものだ。今後はどこも遺族会の支援が薄くなるため、全国の護国神社は今、独自の路線を模索している。城に隣接する観光地や桜の名所としてアピールする神社もあれば、新しい祭を始めたり可愛い縁結びのお守りで人気が出たりした神社もある。実際、靖國神社さえ一年で一番忙しいのは桜の季節だそうだ。
それでも靖國神社は時として国際政治や歴史認識の論争の的となるが、護国神社はもう少し地域に近い。
例えば、こんなことがあった。二〇〇八年三月に那覇地裁で提訴された「沖縄靖國訴訟」。沖縄戦の遺族五人が原告団となり、幼児まで準軍属として合祀したことは死者への冒瀆であり追悼の自由を奪われたと主張して、霊璽簿からの削除を求めた裁判である。二〇一一年九月、福岡高裁那覇支部で控訴棄却された後、筆者は被告(靖國神社)側集会を見物し、当時の共同研究者だった韓国人留学生が原告側集会に参加した。そして、「靖國神社でダメなら、次は護国神社を訴えてみては?」と提案してみたという。原告側の面々からは口々に「あなたはよそ者だから、そんなことを考える」と叱られたらしい。
護国神社がなぜ始まり、どう再建されたか、誰が祀られたか。そんなこと誰も知らないという日がいつか来るだろうか。でも、それでいい。普通の人が日常のささやかな願いを掛けにきて、のんきに初詣や花見を楽しむ世の中になること。それが再建した人々の願いであり、おそらくは祭神たちの願いでもあったと思うからである。
[注]
(4)例えば、義母の実父は東京大空襲で死亡した。義母は一人娘で、母親が再婚したため、実父の墓や仏壇に参る機会はほとんどなかった。「平和の礎」が一九三一年から一九四六年までに戦争に関連して亡くなった沖縄県民の名前すべてを刻印すると決まった時、義母は証明と手続きに奔走し、実父の名前を刻めて「肩の荷が下りた」と喜んだ。護国神社の現宮司にとって実の祖父を偲ぶことができる唯一の場所は皮肉にも「平和の礎」だけである。
[執筆者]
宮武実知子(主婦) Michiko Miyatake
1972年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程(社会学専攻)単位取得退学。日本学術研究会特別研究員(国際日本文化研究センター所属)や非常勤講師などを経て、現在は沖縄県宜野湾市在住。訳書に、ジョージ・L・モッセ『英霊』(柏書房)などがある。現在、新潮社『webでも考える人』で「チャーリーさんのタコスの味―ある沖縄史」を連載中。
『アステイオン84』
特集「帝国の崩壊と呪縛」
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