沖縄の護国神社(4)
その八月には沖縄都市モノレールが開通して神社まで徒歩五分の駅が二つでき、神社のある大型公園の整備も進んだ。「日本の沖縄県」意識が定着し、内地からの移住者も増え、沖縄では少なかった安産祈願や七五三なども年ごとに賑わいを増す。
今年二〇一六年正月の参拝者数は約二六万人(公式発表)。縦に長い沖縄本島の人口が一〇〇万人少しであることを考えると、驚くべき数である。迎える神社側は通常の職員に加えて、臨時アルバイトを一〇〇名以上も採用して対応する。内地の有名な神社に比べれば穏やかなものだが、境内は人で埋まり、昇殿参拝も途切れず続く。神社復興からわずか半世紀ほどで、正月時期の行楽としての初詣はすっかり定着した。
一方、護国神社の「慰霊の場所」としての役割は薄れつつある。
特に沖縄戦から五〇年の一九九五年、摩文仁に「平和の礎(いしじ)」ができた影響が大きい。日本軍に徴用されたアジア人はもちろん米軍人の名前も刻み、宗教性を排した新しいモニュメントと謳われた。だが、実は「十五年戦争に関連した沖縄の死者」すべてを記録した沖縄「県」の慰霊碑でもあり、県民にとっては「みんなの位牌」の役割を果たす(4)。平和祈念公園で追悼式典が行われる「慰霊の日」には、多くの県民が朝から「平和の礎」に詣でる。まるで沖縄式の墓参りのように、敷物の上に座って重箱を並べ、刻印された名前に水をかけ、花を供えて線香を焚き、手を合わせて時を過ごすのである。
その間、神社はひっそりと慰霊祭をおこなう。神社役員さえ摩文仁へ行き、今や参列者は少ない。摩文仁まで行くのが大儀な高齢者が訪れる程度である。
もちろん春秋の例大祭にはまだまだ参列者があり、普段から親が入居するホームのような親しさで参拝する人もいる。かつて遺族会青年部を支えた世代が餅つきや豆まきを企画するなど「遺族のための神社」ではあり続けているが、しかし全体の流れとして言えば、沖縄の護国神社は「戦没者の神社」ではなくなってきた︒
もし参拝者を無作為に抽出して「ここの神様は誰でしょう?」とアンケートをしたら、「祭神など考えたこともなかった」という人が九割近いだろう。実際、話してみたアルバイトの琉球大学生でさえ「やっぱアマテラスっすか?」と答えたほどだ。現在の県民の半数以上を占める四十代以下の世代や移住者にとっては、正直なところ、沖縄戦の記憶も本土復帰の熱も実感に乏しいのである。
靖國・護国神社のゆくえ
だが、しかし、これは喜ぶべきことだろう。護国神社がいったい何なのか知らないことは、大切な人々を失うやり場のない悲しみや、「日本人でありたい」という切実な願いが、過ぎ去りつつあることを意味する。