邦人も避難へ、緊迫の南スーダン情勢と国連PKO
目撃者の証言によると、ジュバの市民は10日、混乱の最中に荷物をまとめ、比較的安全とされる国連施設を目指して避難した。援助職員の話では、およそ2000人がジェベルの国連施設に面した地域にあって空港に近い国連のトンピン施設へ、他の2000人が国連世界食糧計画(WFP)の施設へと避難した。
「皆、荷物をまとめて逃げ出している」と、別の職員も電話取材で証言した。
そもそもの発端は7日夜、マシャール派の反政府軍と、ジュバの検問所に配置された政府側の兵士が衝突したこと。それが戦闘に発展し一気に拡大したのは8日。推定250人以上が死亡したと伝わり、午後に両陣営の指導者が事態の収束を求めて会談をしていた最中のことだった。9日までに戦闘は下火になり、ジュバは緊張状態ではあったものの沈静化していた。
それにもかかわらず、政府軍の兵士は国連のPKO隊員による市内パトロールを妨害し、UNMISSのエレン・マルグローテ・ロイ事務総長特別代表が一時避難していたアメリカ大使館から国連施設へ戻るために派遣した警備隊の通行にも応じなかった。9日午後までに、平和維持部隊によるパトロールは許可され、ロイ事務総長特別代表も国連施設へ無事戻った。
10日に戦いが再発したことで、両派の戦闘は一気にエスカレートした。
大統領派と副大統領派の戦闘
「サルバ・キール大統領を支持する政府軍は、ジェベルにあるマシャール派の拠点を武装ヘリコプターで爆撃、重砲で爆撃し、戦車も展開している」と、マシャール派の広報担当ジェームズ・ガデット・ダクは現地時間10日の正午ごろ、フェイスブックに投稿した。
政府側のルル・ルアイ・コアング報道官は、10日の戦闘には「重砲や小型の武器による攻撃」があったと認めたが、「なぜ、だれが、戦闘を始めたかは把握していない」と述べた。
南スーダンが内戦状態に陥ったのは2013年12月。数十年間断続的に続いた2度の内戦を経て、2011年7月にスーダンから分離独立を果たしてからわずか3年以内のことだった。独立前の内戦中、キールとマシャールは協力関係や敵対関係を繰り返しながら、最終的にアメリカ主導の和平プロセスの下で結束し、その際に設立したスーダン人民解放運動(SPLM)が2011年の分離独立によって自治政府を担うことにつながった。キールが大統領、マシャールは副大統領にそれぞれ就任した。
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