いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く6 (パーティは史上最高)
グリルを支配しているのは、俺より年上の体の大きなオランダ人でフェルナンド・シッパーズと言い、みんなにフェリーと呼ばれていた。とても滑らかな英語を聞き取りやすく発音してくれる人で、銀髪のスティーブン・セガールみたいな男だった。ちょっと危険な冗談を言っては、フェリーは片目をつぶってみせた。彼はロジスティックのベテランっぽく、いかにも宿舎のリーダーという感じだった(実際の役職はプロジェクト・コーディネーターで、産科救急センターの責任者)。
「頭の上に気をつけていた方がいいよ、セイコー。ハイチでは何かあると、それがいいことでも悪いことでも天に銃を向けてバーン!だ。で、その銃弾はどこに落ちると思う?」
にやり。
みたいな。
ダーン、インゴ、ウルリケ、ルカ
ダーンももちろんそこにいた。
コンテナ・ホスピタルやマルティッサンではよく質問していたダーンは、パーティーだとおとなしかった。けれど寡黙というのではない。誰かに常に話しかけられ、よく耳を傾け、何か的確な答えを言って食事に戻る。そういう人だ。
他にものちに、「空飛ぶ」電気技師(Flying Electrician)と呼ばれる種類の人だとわかる(世界各地を常に飛行機で移動し続ける電気系統の技師)、ドイツ出身でほとんど何もしゃべらずにいつでもみんなをにこにこ見ているインゴ・クルツワイル。
アナと同じく初のミッションだという、少し神経質でみんなにたくさんの質問をしている女性、ウルリケ・バックホルツ。
ジャーナリストを思わせる風貌の、おしゃれな眼鏡をかけたイタリア人のルカ・ザリアーニ。
などなどがいて、それぞれに深く話を聞きたかったのだけれど、夜が来て暗くなっていく屋上で照明もない中(あるのはロウソクだけだが風が強く、何本かはすぐに消えてしまった)、結局俺は一人のドイツ人と暗がりの中でしゃべり続けることとなった。
そしてカール
名前をカール・ブロイアーと言った。年齢は64だったと思う。
痩せていて身軽で背が高く、控えめでにこやかな人だった。
フェリーと共によくグリルの火の具合を見ていて、気づかぬうちに立って確認していつの間にか戻っているという感じで、自分を前に押し出すタイプではないようだった。
ハイチの現状について、カールはゆっくりと英語で伝え間違いのないように気をつけている風に語った。足りないものは多かった。施設の不足による医療の届かなさ、政府のインフラ対策の少なさ、ハイチの人々の衛生への意識など。しかしカールはそれを責めるのではなかった。もしもっとあれば、その分だけ人の命が助かるのにと静かに悔しく思っているのだった。
まるで若者が理想に燃えるかのように、還暦を過ぎたカールは希望を語り、しかし終始にこやかに遠くを見やっていた。その暗がりでの表情の柔らかさを、俺は今でも思い出すことが出来る。頬に刻まれたシワとよく光る細い目をゆらめくロウソクが照らしていたが、それが消えてもなお俺にはカールが見えた。どうしてかは今ではもうわからない。
俺はカールがこれまでどんなミッションを経てきたのか聞きたかった。
もしよければ教えていただけませんか?
すると微笑と共に答えが来た。
「初めてなんですよ」
俺は驚いて黙った。
「これが生まれて初めてなんです」
カールはまるで自分に孫が出来たかのような初々しい喜びをあらわしてさらに言った。
「私はエンジニアとして、ドイツの中でたくさんの仕事をして来ました。あっちの会社、こっちの会社とね」
「あ、お医者さんでなく?」
「そう。技術屋です。それで六十才を超える頃から、ずっとMSFに参加したかった。そろそろ誰かの役に立つ頃だと思ったんですよ。そして時が満ちた。私はここにいる」
たったそれだけのことを聞く間に、俺の心は震え出してしまっており、とどめようがなかった。暗がりなのをいいことに、俺はカールに顔を向けたまま涙を流してしまっているのだった。