日本の生徒は「儀礼的」に教師に従っているだけ
何とも結構なことだ。それならば、日本では生徒と教師の関係がさぞ良好だと思われるが、実際はどうなのか。<図1>の縦軸を、「私は、大抵の先生とうまくやっている」の肯定率に変えると<図2>のようになる。
2つの指標は傾向としては負の相関関係(右下がりの傾向)にあり、左上から右下の範囲に位置する国が多い。右上と左下にあるのは、特殊なケースだ。
日本の特異性は際立っていて、左下の極地にある。教師の言うことを聞く生徒は多いが、教師と良好な関係にある生徒は少ない。何とも変わった社会だ。
アメリカの社会学者ロバート・K・マートンの表現を使うと、日本の生徒は「儀礼的」な戦略を取っていることになる。勉強に興味は持てないし、本当は(ウザい)教師の言うことなど聞きたくないが、成績に響いたり退学になったりすると困るので仕方なく従順にしているという具合だ。
マートンは、文化的目標にコミットしていなくても、そのための制度的手段を(やむなく)承認する適応様式を「儀礼型」と名付けた。日本の生徒のケースでは、勉強して偉くなろうとは思わないが、学校を卒業しないと落伍者の烙印を押されてしまう、という強迫観念に突き動かされていることになる。<図2>のグラフは、そのような生徒が教室に多くいることを示唆している。
「儀礼型」人間について、マートンは著書で次のように述べている。「外部から観察すると、本人は、謙虚で思慮分別があり、見栄をはらない。自発的な自己抑制によって、彼は、自分の目的や大望を制限し、冒険や危険に伴う快楽をすべて拒絶する」(森東吾訳『社会理論と社会構造』みすず書房、1961年)。確かに、日本の生徒のイメージと重なる。
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このような儀礼的戦略を幼い頃から行使し続けると、どういう人格形成がされるのか。おそらくは、自分の頭で考えることをせず、周囲に機械的に合わせるだけの付和雷同型の人間ができ上がる。過剰適応型人間と言えるかもしれない。日本の企業社会は、このような人々によって支えられている側面がある。法を遵守しない、やりたい放題のブラック企業がはびこる土壌の一端もここにある。
そう考えれば、<図2>のグラフで最も問題なのは、左下の位置する国々かもしれない。日本と同様、受験競争が激しい韓国もこのゾーンに位置している。最終的な目標を見いだせないまま、形式的に学校という制度にこだわる。そのような儀礼的戦略を取る生徒が多い社会ということになる。
外国の研究者を驚かせる日本の生徒の適応様式は、内面の同調を伴わない儀礼的なものであり、単純に誇れるものではないと認識する必要がある。
現在では、インターネットを使って簡単に知識を得ることができる。そのような情報化社会で、学校だけが教育の場であり続けることはできない。しかし日本では、学校への絶対信仰がいまだに強く、必要性が感じられなくても、生徒は長期間学校に通うことを強いられる。教育機会の多様化が議論されているが、子ども期は「学校がすべて」という現状からの変化を望みたい。
<資料:OECD「PISA 2009」>