同胞の部屋探しを助ける中国出身の不動産会社社長(前編)
来日当時、住んでいたのは学校の寮だったが、ある日突然、寮が閉鎖されてしまい、荷物を背負って住みかを探すほかなかった。だが、日本語のできない外国人が部屋を借りるのは、きわめて難しい。公園のベンチで寝ようと準備までしたのだが、幸いある友人が私を引き取ってくれたのだった。のちに妻が(当時はまだガールフレンドだったが)中国から来日し、私はようやく家賃3万円、8畳一間の古いアパートに引っ越した。バスルームもエアコンもなく、夏の暑い盛りには室内温度は30度以上に達し、妻の顔には水ぶくれができてしまった。本当に耐えられなくなり、思い切ってエアコンを買った。
いま振り返ってみれば、中国での恵まれた条件をほうり出し、キッパリ出国して奮闘してきたことは少しも後悔していない。これもまた、運命がそうさせたと信じている。もし中国に残っていたら今ごろふつうの役人になり、汚職をせずとも他の役人と同じ流れになっていたろう。だがそのような生活は、決して私が求めるものではなかったのだと思う。
不動産業を選んだのは偶然だった
日本語学校を卒業後、千葉大学大学院に進学し、2年後に修士号を取得した。引き続き博士課程に進みたかったが、指導教官が「見たところ君は学問をやるタイプではない。友人の会社を紹介するから、いっそのこと就職してはどうか」という。それで教官が薦めたその貿易会社に入社した。
しばらくしないうちに独立し、絨毯のビジネスを一時期手がけた。のちに取り組んだ不動産業も、ある種の偶然からだった。当時、絨毯ビジネスがうまくいかず、そのほかのこともわからない。それで、どうせなら何か勉強しよう、資格でも取ろうと思った。妻は以前、不動産会社で働いたことがあり、仕事上の必要から不動産業のライセンスを取っていた。
君が持っているなら僕もなければと、不動産関係の本を何冊か買ってきて、勉強をはじめた。それから本当に合格するとは思わなかったが、ちょっと試してみようと資格試験を受けたところ、1カ月後に合格通知が届いた。こうして私たちは2人とも不動産業のライセンスを持つことになり、筋道に沿って順調に不動産ビジネスをはじめたのだった。
もちろんこの選択は日本に来たばかりのころ、アパートを探して苦労した経験とも無関係ではない。当時日本語ができなかった私は、アパートを探してあちこちで行き詰まった。そして2つの考えをめぐらせた。第1に、どうしてこんなに部屋を借りるのが難しいのか。第2に、日本でマイホームを持ちたい、ということである。