謎の長距離走大国ニッポンで「駅伝」を走る
もしかしたら、これまで私が鈍感すぎただけなのかもしれない。しかし個人的な感覚からすると、駅伝は"正月を祝っているときにテレビで流れているもの"であり、それはそれで見ていて楽しいのだけれども、そこに日本人の精神が反映されているかどうかなど考えたことがなかった。だから著者の思いには新鮮なものを感じたし、その思いが本書にリズム感を与えていることも間違いないだろう。
また、それ以前に、著者自身の「走る」ことへの思いも重要な意味を持っているように思える。ライターとしての取材という目的だけでなく、そもそも著者のなかには、走ることへの純粋な欲求が根ざしているのだ。だから「琵琶湖での駅伝に参加するメンバーが足りないから、参加してみませんか?」という誘いを受けるや、「これこそ、ずっと待ち望んでいた瞬間だった」と感じて快諾するなど、ここでは自身のランナーとしての立ち位置も大きな要素として機能しているのである。
なぜ自分が走るのか自問することがよくある、と僕は彼女に伝えた。(中略)誰かに強制されたわけでも、頼まれたわけでもない。僕が走ろうが走るまいが、誰も気にしやしない。それでも、僕はいつも走る。何かが、僕を突き動かすのだ。(108ページより)
そして著者はこうも主張する。自分のなかのなにかとつながるために走っているのではないかと。走るという行為はシンプルで、純粋なまでに無慈悲なものだそうだ。走ることによって世俗的な層が剥がされ、その下にある生の人間があらわになる。それは得難い経験であり、自分の力を試される機会で、一種の自己実現でさえある。走るという行為に対してここまで純粋でいられるというのは、ちょっとばかりうらやましくもある。
ところで本書には、そのストーリー性を"偶然"際立たせている要因がある。読み進めながら感動的なクライマックスが訪れるであろうことを疑わなかったのだが、結果的にそれは訪れなかったのだ。
日本滞在期間のクライマックスにあたる富士宮駅伝に出場することを決めた著者は、彼とともに参加するチームを<エキデン・メン>と名づけて期待を膨らませるのだが、そこには望まない結果が待ち受けていたのである。
運転手の野村は帽子をうしろに傾けてかぶり、片手でハンドルを握っていた。そのとき、彼の携帯電話が鳴った。(中略)通話を終えた野村は、何も言わずにまえを見据えた。
「何か問題?」と僕は訊いた。
初め、彼は答えようとしなかった。車内の全員の視線が野村に向けられた。
「大会が中止になりました」と彼はやっと口を開いた。「ひどい雪らしくて」(320ページより)
結果論かもしれないが、富士宮駅伝が中止になって目標が失われたことが、作品に立体感を加えている。涙が出るほど感動的なドラマがあるわけではなく、むしろ喪失感だけを意識させるからこそ、逆に著者の思いが浮き立っているのだ。
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『駅伝マン――日本を走ったイギリス人』
アダーナン・フィン 著
濱野大道 訳
早川書房
[筆者]
印南敦史
1962年生まれ。東京都出身。書評家、ライター。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。現在は他に、「ライフハッカー[日本版]」「Suzie」「WANI BOOKOUT」などで連載を持つほか、多方面で活躍中。2月26日に新刊『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)を上梓。