曖昧な君が代は「歌わない国歌にせよ」という提案
では戦後、国民の「君が代」に対する考え方はどうだったのだろうか? このことについては1962(昭和37)年に行われた「朝日新聞」による世論調査の結果が引き合いに出されているが、そこで明らかになったのは「消極的な肯定」という国民の態度だ。
国民の多くは、「君が代」に対して「意味はよくわからないが、これでいい」という態度を取っていたらしい。(中略)なるほど「君が代」は法律によって国歌と定められていたわけではなかった。戦後の日本は民主国家なので、事実上の国歌に収まるためには国民の支持や同意も必要だろう。ただ(中略)戦後の日本でも「君が代」は事実上の国歌として通用し続けていたのではないかと思われる。政府も長らく慣習としてそのように扱ってきた。(222ページより)
つまりはこうした"曖昧なバックグラウンド"があったからこそ、文部省と教職員らとの対立も深まったのかもしれない。ちなみに、「君が代」は1999年に「国旗国歌法」の施行により国歌として法制化されたが、それは国民に「君が代」の斉唱を義務づけたものではなかったこともあり、以後も論争は続くことになる。
さて、こうしてまとめてみただけでも充分にややこしい「君が代」だが、では私たちは結局のところ、この歌とどう関わっていけばいいのだろうか? このことについて著者は、本書の最後で重要な提案をしている。
大雑把にいえば、「君が代」は日本の国歌として受け入れ、しかし歌うことは強制せず、複雑な歴史を学んでいくべきだということ。なかでも注目すべきは、「君が代」を「歌う国歌」から「聴く国歌」に変えてはどうかという考え方である。
「歌う」という行為は、強制された時の屈辱感や抑圧感がとても強い。それは日本が急速に近代化する時には必要だったのかもしれないが、今やそんな時代でもないだろう。(中略)これに比べ、「聴く」という行為は、(一分程度であれば)強制されてもそれほど強い抑圧感はもたらさない。実際、多くの日本人にとって「君が代」はすでに「聴く国歌」となっている。(253ページより)
たしかにそのとおりで、私も歌わされることには抵抗があるが、だからといって否定派だというわけでもなく、楽曲としての「君が代」は聴くたびに「いい曲だな」と感じる。ましてや右とか左とか、そういうことでもないように思える。
思想信条以前に、そのような感覚は誰のなかにもあるのではないだろうか? だからこそ、感情的になったり、その結果としてなんらかの考え方を押しつけたりするのではなく、「私たちの歌」として個々人が大切にしていけばいいのではないかということだ。それは「決定的な答え」ではないかもしれないが、「ひとつの答え」ではあり、それが重要だと考えるのである。
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[筆者]
印南敦史
1962年生まれ。東京都出身。書評家、ライター。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。現在は他に、「ライフハッカー[日本版]」「Suzie」「WANI BOOKOUT」などで連載を持つほか、多方面で活躍中。