電子本が切り開く文学の未来
もちろん、この程度のアイデアは予測可能な範疇だ。いずれは私たちがまだ見たことのない、あるいは夢に見たことすらない作品が生まれ、私の、そして未来の芸術家たちの想像力を刺激することに期待したい。今後誕生する新しい物語は、複数の媒体を融合させるマルチメディアの利点を最大限に活用したものになるだろう。
こうした変化は紙に印刷された小説の死を意味するのか。そうではない。この手のテクノロジーは言葉の持つ力を弱める、と主張する声が消えることはないだろうが、言葉だけでつづられる物語はこれからも存在し続ける。
新しいテクノロジーは小説の領域を侵すように見えるかもしれない。だがテクノロジーの進歩には、紙に印刷された文学にしかできないこと、その可能性に対する私たちの認識を研ぎ澄ます効果もある。
アメリカの詩人マリアン・ムーアは、高名な作品『詩』の中でこう語っている。「私もまた、それ(詩)が嫌い/しかし完全に軽蔑しながらも、それを読むと、人は発見する/結局、それは本物のための場所だということを」
つまり、詩には詩にしかできないことがあるということだ。
20世紀の小説は、小説にしかできないことを極めたと言える。小説家たちは映画やラジオ、テレビに包囲されながらも、何よりもまず紙のページ上の言葉として最高に輝く作品を作り上げた(小説がハリウッド映画の素材に利用されることも多かったが)。
小説の『響きと怒り』と、その映画化で失敗作とされる『悶え』(59年)を比べてみるといい。映画が完全な失敗に終わったこと自体、書籍という媒体でしか機能しない作品があるという見方を裏付けている。
アーティストの新たな使命
それでも全体的に見れば、新しいテクノロジーによって「閉まるドア」よりも「開くドア」のほうが多い。その中には、「まだ建設中の建物のドア」も含まれる。
エジソンは円筒式レコードが後世にもたらす影響を予測できず、飛行機を発明したライト兄弟はじゅうたん爆撃を予測できなかった。
私たちは良い影響も悪い変化も受け入れるが、それまで想像もできなかった可能性を新たに見いだすのは芸術家の仕事だ。「映画の父」D・W・グリフィスは映像に詩を発見した。モダンジャズギターの草分けチャーリー・クリスチャンは、ギターの音をアンプで増幅することに可能性を見いだした。
今この瞬間も、芸術的才能にあふれた子供がどこかでこう考えているかもしれない。「まずコメント用トラックから始めて、そこから後戻りしたらどうかな」
[2010年7月28日号掲載]