駐留米軍を待つ悪夢の撤退戦
一方、今年2月までイラク駐在米大使を務めたライアン・クロッカーは6月30日の記者会見で、「イラクは難しい国だ。この点は今後もずっと変わらない」と発言。だからこそクロッカーは07~08年、地位協定の交渉と並んで「11年以降もずっと続く両国関係の青写真」となる戦略的枠組み合意の成立に力を注いだ。オバマとマリキの首脳会談でも、この合意の重要性は強調されている。
この枠組み合意の目標は、経済、科学、法律、文化、教育の各分野で両国の絆の強化を図ることにある。こうした「ソフトな」分野での協力は、両国関係安定化の重要な鍵になる可能性がある。
大局的な視点に立つ戦略としては賢明な選択だろう。だが、ボルジャーが記者会見で語った米軍撤の具体的な戦術は、驚くほど曖昧なものだった。
米軍は10年8月までにすべての戦闘作戦を終了させる予定で、兵力は現在の13万人から「残留部隊」の5万人だけになる。だが、残った米兵がどこで何をするかは、まだ決まっていないらしい。
「あらゆる提案に目を通した」と、ボルジャーは言う。例えば「地方に散らばり、屋内外でイラク治安部隊の訓練を行う」という案や、米軍を「都市のすぐ外側に配置し、対ゲリラ戦の訓練や任務を支援する」案。国内の反乱対策を主要任務とするイラク軍を補完するため、米軍を国境方面に移動させ、「非友好的な一部の国による侵攻の可能性」に備える案もあるという。
占領軍は手荒な報復を受ける
いずれにせよ、撤退時に米軍はかなり苦労しそうだ。1970年代にベトナムから手を引いたアメリカ、80年代末にアフガニスタンから撤退したソ連、82~2000年にレバノンから段階的に兵を引いたイスラエル。過去の歴史をみる限り、厳しい事態が予想される。
まず撤退を開始すると、かつての友軍が現地で力を持ちそうな勢力と手を結び、情報を提供し始める。イラクの場合、この「勢力」はイランだろう。
さらに撤退する部隊の補給線が長く延びると、最後に残った兵士は大量の物資と共に移動することになり、攻撃や嫌がらせを受けやすくなる(イラク駐留米軍の補給線が長くなるのは確実だ)。
悲惨な事例として歴史上よく知られているのは、1842年にアフガニスタンのカブールから撤退しようとした英軍だ。このときは1万6000人が東のジャララバードへ向かったが、生き延びたのは1人だけだった。
イラク駐留米軍が2万~3万人まで縮小したら、「すべてはイラク人の出方次第だ」と、軍事史家のファンクレフェルトは指摘する。
イラク人はアフガニスタンのムジャヘディン(イスラム系ゲリラ組織)と同じ行動を取るだろうか。ファンクレフェルトによると、ムジャヘディンはソ連軍がアフガニスタンから撤退した88年、「遠くから嘲笑するだけだった」。あるいは内戦に忙しくて米軍どころではないかもしれない。
撤退する占領軍は、荒っぽい報復を受けるのが普通だ。境界線が曖昧なイラクのクルド人地域と南部のアラブ人居住地域は、既に「襲撃ライン」と呼ばれている。
それでも運がよければ、次のイラクの「主権の日」は流血と無縁の平和な祭りになるかもしれない。今はそれを願うばかりだ。
[2009年8月 5日号掲載]