ユダヤ人国家の破廉恥指導層
大物政治家が自分だけは捕まらないと考える背景には、建国初期のイスラエルの事情が影響している。独立を果たした後、支配階級のエリート層は自分たちの世界に閉じこもり、上層部の腐敗を公の目に触れさせなかった。ユダヤ人国家の建設が最重要課題であり、政治的な目標の達成に役立つかぎり、個人の弱みは見逃された。
転機となったのは、1973年の第4次中東戦争。エジプトとシリアがイスラエルを奇襲攻撃し、数千人のイスラエル人の若者が命を落とすと、国民の怒りがベテラン政治家に向けられた。
今の政治家には崇高な大義さえない
これを機に政治家への攻撃が始まった。警察や検察がある閣僚(後に自殺)や中央銀行総裁の候補者(後に収賄の罪で服役)など政府高官の捜査に着手。イツハク・ラビン首相でさえ、アメリカの銀行に口座をもっている(当時は不法だった)とマスコミに報じられ、77年の2期目出馬を断念せざるをえなかった。
だが70年代の衝撃的な不正の嵐は、今のイスラエルで起きている事態とは事情が違う。70年代に糾弾された政治家たちは「党の利益のために」カネを受け取ったと釈明したし、実際その通りだったことも多い。
だがその後、イスラエル社会に自由市場改革の波が押し寄せると大企業が政治に影響力をもつようになり、不正も「個人化」した。
現在、汚職で告発されている政治家を突き動かしたのは個人的な欲。国家や崇高な大義のための行動だったと主張する者は誰一人いない。外国人の有力者や金持ちエリートとの付き合いが多いオルメルトのような公人にとって、リッチな友人と同じライフスタイルを楽しみたいという衝動は抑えがたいもののようだ。
多くの大物政治家を告発することで、イスラエル司法は勇気と権力からの独立を示した。だが、それだけでは十分ではない。次世代の指導者たちに腐敗した先人たちと同じ轍を踏ませないよう、社会の規範を変える必要がある。
それは、まだ最初の一歩さえ踏み出していない壮大な挑戦だ。