母親としての悩みと葛藤を描く映画『ロスト・ドーター』が残す「謎」と深い余韻
Finding Answers in the Book
違いはほかにもある。最も目立つのはニーナの夫トニの描き方だ。小説では「30歳から40歳のずんぐりした男」で「太鼓腹に傷痕が走っている」が、映画のトニはスリムでハンサム。モデルの顔も持つオリバー・ジャクソンコーエンが演じている。
語り口も変化した。小説はレダの一人称で彼女の視点から語られるが、映画はナレーションを使わず、コールマンの演技で心の動きを伝える。
また、レダは小説よりもおしゃべりで、胸のサイズの話など原作では心の中のつぶやきだったエピソードを、口に出して語る(小説のレダは若い頃は大きかった胸が子供を産んで小さくなったと述懐するが、映画では逆。これはコールマンの豊満な体形に合わせたのかもしれない)。
一方、レダの名前はそのままだし、ゼウスが白鳥に変身してスパルタ王妃のレダを強姦するギリシャ神話の逸話と、これを題材としたW・B・イエーツの詩にも言及される。男は好き勝手をしても罰を受けず、その陰で女、特に母親が苦しむのはイタリアでもイギリスでも変わらない。
ヒロインは死んだのか?
結末は解釈が分かれるだろう。レダは激高したニーナに、帽子を留めるハットピンで腹を刺される。そのまま車を運転して事故を起こし、傷口から血を流しながら転げるように砂浜に出て、娘たちに電話をかける。
安否を気遣う2人にレダは「生きてるわ」と答える。そして話を続けながらどこからともなくオレンジを出し、かつて幼い娘にしてみせたようにその皮をくるくると「ヘビのように」むく。レダは既に死んでいるのだろうか。
この場面、小説では砂浜ではなくレダの部屋で展開するが、曖昧さでは劣らない。該当部分を読んでみよう。
「私はそろそろとソファに腰を下ろした......脇腹を貫いたピンは無害なのか。テーブルの帽子に目をやり、肌にこびりついた血を見た。日が暮れていた。私は立ち上がって明かりをつけた......荷造りを終えて、着替え......髪を整えた。電話が鳴った。
発信者はマルタ。うれしくなって電話に出た。マルタとビアンカが前もって練習したかのように声を合わせ......耳元で陽気に叫ぶ。『ママ、なんで電話をくれないの? 生きてるか死んでるかくらい教えてよ』。心を深く動かされて私はつぶやいた。『死んでるわ。でも元気よ』」
「生きてるわ」と「死んでるわ」。言葉は反対だが、曖昧さは残る。レダは若いニーナに、夫を裏切り子供を捨てた過去の自分を重ねた。だがニーナはレダをピンで刺し、同じ道を選ぶことを拒む。
若き日の自分に負わされたレダの傷は癒えるのか。それとも命取りになるのか。
小説も映画も同じ謎を残して幕を閉じる。
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THE LOST DAUGHTER
『ロスト・ドーター』
監督╱マギー・ギレンホール
主演╱オリビア・コールマン、ジェシー・バックリー
Netflixで独占配信中