ハリウッド女優たちの悲劇は死後も続く──伝記映画でも本質にはノータッチ
A Myopic Close-up
『オズの魔法使』のドロシー役で獲得したアカデミー子役賞のトロフィーは競売に(1993年12月)PeterMorgan-REUTERS
<一世を風靡した女優を描く新作『ジュディ』も不幸な晩年に固執して本質的な問題を置き去りに>
9月に全米公開された伝記映画『ジュディ』は、ジュディ・ガーランドの生涯、というより死がテーマだ。1968年、46歳になり、無一文で薬漬けですっかりおちぶれたかつての名女優ガーランドが、最後にロンド ンでもうひと花咲かせようとコンサートに臨む。その姿を、アカデミー賞狙いのレニー・ゼルウィガーが熱演した。
住み慣れた土地から8000キロ以上離れても、人気子役時代の記憶と影響はガーランドに付きまとう(それを象徴するように、ドロシー役で人気を博した『オズの魔法使』撮影中のMGMのルイス・B・メイヤー社長との関わりがたびたびフラッシュバックする)。緊張で体が動かなくなったり、不安に押しつぶされそうになったり......。ありがちな場面を見ながら、ふと思った。私たちはなぜ、美しい女優が壊れていく姿にこれほど興味を引かれるのか。
生前最後のコンサートからわずか半年後にガーランドが死去したことは、ラストまで伏せられているものの、この作品は彼女の早過ぎる死に全面的に依存している。それ抜きでは、この恐ろしく空虚な映画は存在し得ないだろう。
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ハリウッドスターの悲劇を安っぽいメロドラマに仕立てた作品はほかにもある。30歳を過ぎて徐々に壊れていくマリリン・モンローをミシェル・ウィリアムズが演じた『マリリン7日間の恋』(2011年)。死期の迫った往年の大女優グロリア・グレアムをアネット・べニングが 演じた『リヴァプール、最後の恋』(17年)。いずれも賞狙いの悪趣味なミニジャンルの象徴で、新鮮な洞察ではなく陳腐なアイロニーにしがみついていた。
この手の映画が作られ続ける理由は明らかだ。9月にコロラド州のテルライド映画祭で『ジュディ』がプレミア上映されると、ゼルウィガーはアカデミー賞主演女優賞の最有力候補に躍り出た。『ブリジット・ジョー ンズの日記』で一躍スターになった彼女自身、6年ほど映画界から遠ざかっていた時期があるだけに、ガーランドの挫折との対比が一層際立った。
モンロー役のウィリアムズはモンローのイメージに誘惑的で悪女っぽい魅力を付け加え、ゴールデングローブ賞を受賞、アカデミー賞候補にもなった。ベニングもコケティッシュで気性の激しいオスカー女優の姿を熱演し、じっと見つめられたら鋼鉄でも溶けそうなまなざしだけが取りえではないことを証明してみせた。
要するに、若い頃のように注目されたり、演じがいのある役を獲得するのが難しくなった女優でも、老いていく別の女優の役ならまだいける、というわけだ(自分はそういう女優たちとは違うと証明できる、という皮肉な見方もあるかもしれない)。