黄金のクジャクの間 140年の時を経て現代によみがえる
Whistler’s Peacock
大幅な値切りを余儀なくされたホイッスラーは、レイランドのダイニングルームに戻ると、この部屋の最大の呼び物を追加した。2羽の雄のクジャクが羽を広げて威嚇し合い、今にも取っ組み合いのケンカを始めそうな壁画だ。タイトルは『芸術と金──あるいはこの部屋の物語』。2羽のクジャクのモデルがホイッスラーとレイランドであることは明らかだ。
「おまえを有名にしてやったのは私だ」とレイランドが言うと、ホイッスラーは鋭く言い返したとされる。「私の作品は生き永 らえるが、あなたは忘れ去られる。もしかすると将来、ピーコック・ルームの所有者として思い出されるかもしれないが」
内装を完成させたホイッスラーは、二度とこの部屋を訪れることはなかった。一方でレイランドは、ひそかにその出来栄えを気に入っていたのではないかと、グレイザーは言う。「レイランドはロンドンで指折りの富豪だった。嫌なら誰かにやり直しをさせるのは簡単だったはずだ。だが、そうはしなかった」
第3木曜だけは自然光で
1860〜70年代のイギリスでは、耽美主義が大きなトレンドとなっていた。社会的・政治的な主張を忘れて「芸術のための芸術」を楽しもうという考え方だ。ピーコック・ルームは、そんな時代を最も象徴する作品かもしれない。
「ホイッスラーはトータルな美学、すなわち自分がつくった美の世界に没入する経験を提供したかった」と、グレイザーは言 う。「芸術は額縁の中に限定されず、部屋全体に拡張されるべきだと考えていた」
ビジネス上の計算もあった。この作品が話題になれば、内装の依頼が殺到するに違いないと思ったのだ。だがレイランドと仲たがいした後、コレクターの間ではホイッスラーの評価が下がり、彼は経済的に困窮することになる。
それでも、この困窮はホイッスラーが水彩画に転向するきっかけになった。水彩画は油絵よりも早く乾くし、短期間で制作できる(そしてよく売れる)。「ホイッスラーは、芸術とお金は切っても切れない関係にあることに気付いていた」と、グレイザーは語る。「そしてアーティストは、自らの作品の価値について最大の決定権を持つべきだと固く信じていた」
レイランドが1892年に死去すると、アメリカの実業家チャールズ・ラング・フリーアがピーコック・ルームを買い取り、デトロイトの自宅に移設した。やがてフリーアも他界すると、フリーア美術館に移設された。だがオリジナルに近い姿で公開されたのは、今年5月のことだ。
フリーアがピーコック・ルー ムを購入したとき、既にレイランドの磁器コレクションはオークションにかけられ、処分されていた。今回フリーア美術館で修復されたピーコック・ルームは、1892年の写真を基にレイランドが保有していたものと似た磁器またはそのレプリカを集めて、金箔を貼ったクルミ材の格子棚に並べている。
ピーコック・ルームは基本的に、外光の入らない密室として展示されている。だが毎月第3木曜日だけは、3組のよろい戸が開けられ、自然光の中で部屋を見ることができる。そこに浮かび上がる磁器のデリケートな色合いは格別だ。
再びよろい戸を閉めると、今度は壁画のクジャクが生き生きと輝き始める。「レイランドの時代には、夜だけよろい戸が閉められた」とグレイザーは言う。
「すると暗闇の中で黄金のクジャクたちがよみがえるのだ」
※8月27日号(8月20日発売)は、「香港の出口」特集。終わりの見えないデモと警察の「暴力」――「中国軍介入」以外の結末はないのか。香港版天安門事件となる可能性から、武力鎮圧となったらその後に起こること、習近平直属・武装警察部隊の正体まで。また、デモ隊は暴徒なのか英雄なのかを、デモ現場のルポから描きます。
[2019年8月27日号掲載]