「コーラン焼却」集会も言論の自由か
9.11にコーランを燃やせと呼び掛ける牧師が、無実のアフガン人とアメリカ人を危険にさらしている
憎悪の先に コーランを読むアフガニスタンの子供たち Omar Sobhani-Reuters
ここ数週間、アフガニスタンの首都カブールにはピリピリしたムードが漂っている。9月6日、市内のあちこちでデモが発生、道路が占拠された。インターネットにアクセスできるアフガニスタン人たちが、あのニュースを広めているのだ。
彼らの怒りに触れたのは、米フロリダ州ゲーンズビルのキリスト教会ダブ・ワールド・アウトリーチ・センターのテリー・ジョーンズ牧師。ジョーンズはアメリカで同時多発テロが起きた9月11日に、犠牲者を偲んでイスラム教の聖典コーランを燃やす集会に参加するよう呼び掛けている。
この話がアフガニスタンに届くのに、そう時間はかからなかった。カブールの路上には、イスラム教への敵意丸出しのジョーンズを描いた風刺写真が散乱している。
ジョーンズが呼び掛ける「コーラン焼却集会」が予定されている9月11日がイスラム教のラマダン(断食月)明けの祭日イードと重なるのが、せめてもの救いかもしれない。アフガニスタン人をはじめ世界中のムスリムが、ジョーンズの行動をイスラム教への冒涜だと憤慨しているが、祭日ということで怒りが少しでも和らぐことを祈るしかない。
ラマダン明けの祭日がいつになるかは新月の見え方によって変動するが、現時点で可能性が高いのは9月10日。祭日は4日間続き、この間は親戚が集まってケーキやクッキーをたくさん食べ、ラマダンを無事終えたという喜びに浸る。暴力はふさわしくない。
だがそれでも、私はあのムハンマド風刺画事件を思わずにはいられない。05〜06年にかけてデンマークやノルウェーの新聞がイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載。これに反発したムスリムが、デンマークやノルウェーの在外公館に火炎瓶を投げるなどして大規模な暴動に発展した。
報道の自由の信奉者である私でも、ムハンマドの風刺画を掲載するという判断を心から支持するわけにはいかなかった。
「イスラムは悪魔」の屁理屈
ジョーンズはブログに「コーランを燃やすべき10の理由」と題し、自分の主張を正当化する文句を並べている。
その1つは、ムスリムはイエス・キリストが神の子であると信じていないということ。だがそれを言うなら、ジョーンズはユダヤ教の聖典であるトーラーも火の中に投げるべきだろう。
ほかには、コーランが「天国で書かれたものではないから」。これについては大勢の聖書研究者が口をそろえて、キリスト教の聖書も人間の手で書かれたのだと説明してくれるだろう。
ジョーンズの理屈で私が特に気に入っているのはこれだ。「イスラムの教えと文化の根底には、欧米に対する理不尽な恐怖と憎悪の念がある」
理不尽な恐怖と憎悪だって? ジョーンズは鏡に映る自分の顔に見えた感情のことを言っているに違いない。
私は「市民の自由」の擁護者だ。だからアメリカをアメリカたらしめている自由の精神を押さえつけようとは夢にも思わない。そんな私が、この1カ月は無我夢中で友人の弁護士たちに訴え続けた。誰か頼むから何とかして、ジョーンズと彼の信奉者たちを止めてくれないかと。
「この国では憎悪に満ちた発言は禁止されていないのか」と嘆く私に、弁護士の友人はアメリカはカナダではないと言った。もしナチスや白人至上主義団体KKK(クー・クラックス・クラン)がデモを行えるのなら、ジョーンズにも「イスラムは悪魔」と書かれたTシャツやマグカップを売る権利がある。「イスラムは悪魔」は、彼のお気に入りのフレーズだ。
憎悪に満ちた発言を禁止できるのは、それが大きな犠牲につながる切迫した危険を伴っていると、確かな根拠を示せるときだけだ。