自閉症が個性と認められるまで
本物の自閉症ではなという非難も
不随意運動などを伴う難病のハンチントン病の出生前診断は既に行われている。それを望む人の気持ちは十分に尊重されなければならないだろう。
ただし自閉症は命に関わる病気ではない。自閉症でない人が自閉症児を産むか産まないかを決めていいものか。「いいとすれば僕らのような人間はこの世で不要だということだ」とネエマンは語る。
ネエマンのような人間が排除されるかもしれないなんて、考えるだけでぞっとする。ダウン症の胎児の人工妊娠中絶は今では珍しくない。自閉症に対する親の不安を考えれば、同じことが起きないとは言い切れない。自閉症者のいない世の中はどんな世界になるのだろう。
自閉症の症状は多様なだけに、出生前診断に関する判断も難しくなりそうだ。胎児が軽度の自閉症か重い自閉症かを知りたがる親が出てくるかもしれない。
ネエマンは奇妙な偏見と闘っている。本物の自閉症者ではないと非難する声があるのだ。母親のリナに言わせれば心外な批判だ。「子供の頃のアリは今の姿からは想像できないほどの苦しみを味わった」
幼い頃のネエマンは、言葉の面では早熟でも対人面で問題があった。「僕は周囲の人を理解できず、周囲も僕を理解できなかった」とネエマンは言う。
いじめられ、仲間外れにされた。当時は他人の目を見られなかった。手をひらひらさせ、ひっきりなしに歩き回った(この症状は今でもある)。「『変人』と思われたかもしれない」とネエマンは語る。
一時は特殊学級に入った。抑鬱と不安が高じ、血が出るまで顔を引っかいたこともあった。
外国語のように学んだ社交術
今でも雑談は苦手だ。相手に合わせることを学んだが、楽ではない。「会議が終わるまで仮面を着けている。相手の目を見て、ワンパターンの言葉を返すんだ」とネエマン。「スムーズにできるようになっても演技していることに変わりはない。本当に疲れるよ」
ネエマンは以前、対人関係のトレーニングで、人はうれしいと歯を見せて笑い、悲しいときは顔をしかめると教わった。「(そんなオーバーな表情の人はいないので)なぜ周囲の人たちはうれしくも悲しくもないんだろうと不思議に思った」とネエマンは言う。
自閉症者にとって、社交術は外国語のようなものかもしれない。どんなに流暢になっても決してネイティブにはなれない。
「知り合いの自閉症者で、ネットワークづくりに特別な関心と才能を持っているのはアリだけ」だと語るのは活動家仲間のケーティー・ミラー。「でも自然にそうなったわけじゃない。アリはほかのみんなが算数を学ぶようにネットワークづくりを学んだ」
ネエマンはネクタイを締めるのが好きだ。首の周りに程良い圧力がかかって落ち着くと言う。「不安を静めるのにいい」
彼は最近、自閉症研究に資金提供しているダン・マリノ財団と共同で、自閉症に対する誤解をなくす啓蒙活動に取り組んでいる。
ネエマンは赤いセーターにネクタイ姿で公共広告に登場。特殊な装置を使ってコミュニケーションを取る他の自閉症者らも一緒に出演している。「僕らの未来は閉ざされていない」とネエマンは語り掛ける。「僕らの人生は悲劇なんかじゃない」
ネエマンは私たちに訴えている──僕たちはあなたの目の前にいる。僕たちを世界から消し去らないで。
[2009年6月17日号掲載]