ロボットに「居場所」ができるのは、人々に飽きられたとき──クリエイター・吉崎航の見据える夢
吉崎:その意味で言うと「ルンバ」はもはや珍しくもないし、かなり洗練されてきている。もう「お掃除ロボット」とは呼ばれることは少なくなってきているのではないでしょうか。そうやって「ロボット」を卒業するんです。
ちょっと脱線しますが、「洗濯ロボット」について考えてみましょうか。
「洗濯ロボット」と聞いてもし、防水された二本腕の機械が洗濯板と桶で洗濯する風景が浮かんだのなら、それはまごうことなき"ロボット"的解決です(笑)。
実際にはそういうものは広まらず、単機能の手回し式洗濯機から一槽式、二槽式、全自動と手堅く進化し、今の乾燥機付き洗濯機になったわけです。これらにはすでに社会的な置き場所もあって、「ロボット」とは呼ばれていません。
──洗濯機は「ロボット」?
吉崎:皆さんが知らなかったり忘れたりしているだけで、乾燥機付き洗濯機なんて、実在しない「夢の技術」だった時代があるはずですよ。
今、「洗濯物たたみロボット」というのも登場していますよね。これも、「箱の中にロボットアームを収めてたためるようにしよう」という、いかにもなロボット的アプローチから、長い時間をかけて「この特殊な機構なら簡単にたためる」と改良され、洗練された仕組みになっていくでしょう。
そして10年後には、誰もそれを「ロボット」とは呼ばず「全自動洗濯機は、当然衣服もたたんでくれるものだよ」なんて言われているでしょうね。ただそのころには、洗濯ものを畳んで保管するという価値観自体が変わっているかもしれませんが。
AIもそうなのではないでしょうか。私が中学生だったころ、AIというと、将来パソコンやケータイに宿る「妖精」みたいなイメージを抱いてました。でもいま文字入力でAIによる予測変換が出てきても「私がどんな文字を入力しているか覚えてくれて、エライな、この妖精は」なんて思わない。
「どんな価値を提供してくれるのか」という役割が分かり「予測変換」と名前がついたら、それをわざわざ「なんとかAI」とは呼ばなくなる。
完成度が上がり、何をしてくれるのかという「機能」も明確になり、置き場所ができて、誰からも飽きられる。その瞬間はいつかきますし、それが「ロボット」からの卒業なんです。
──逆に言うなら、ロボットと呼ばれているうちは、人の期待や夢を載せている存在だ、と。
吉崎:そうです。ロボットを作る側がロボットに夢を託すがゆえに、本来必要ではない機能をつけることもある。
例えば、しゃべるロボットは必ず占いと天気予報ができる。指のあるロボットは、ジャンケンができる。見たことありませんか?私としては、娯楽用でもないのにジャンケンができてもあまり面白さは感じません...用途次第ですね。
5本指でやらなきゃいけない仕事は、ほかにもっとたくさんある。なのに、人間から夢を託されている段階にいるから、こういう機能が「製作サイド」から求められてしまう。