「虐待が脳を変えてしまう」脳科学者からの目を背けたくなるメッセージ
しかし、マクリーン病院発達生物学的精神科学教室とハーバード大学精神科学教室のタイチャーは、共同研究をしていく中で、それだけではまだ足りないのではないかと考え始めた。
子どもの脳は身体的な経験を通して発達していく。この重要な時期(感受性期)に虐待を受けると、厳しいストレスの衝撃が脳の構造自体に影響を与える。それは、ソフトウェアだけの問題ではない。いわば、ハードウェア自体、つまり脳(生物学的要因)に傷を残すのではないだろうか。(109ページより)
実際、近年の脳画像診断法の発達により、児童虐待は発達過程にある脳自体の機能や精神構造に永続的なダメージを与えるということが分かってきたのだそうだ。大脳辺縁系、特に海馬に変化が見られることは、動物実験によっても明らかになっているという。
本書ではその事例が細かく紹介されているわけだが、なかでも個人的には、虐待による神経回路への影響の大きさに衝撃を受けた。
タイチャーらが、虐待を受けて育った人とそうでない人との神経回路の違いを調べたところ、身体感覚の想起にかかわる「楔前部(けつぜんぶ)」(ここには感覚情報をもとにした自身の身体マップがあると言われる)から伸びる神経ネットワークは、虐待を受けた人のほうが密になっていたというのだ。
同じく、痛み・不快・恐怖などの体験や、食べ物や薬物への衝動にも関係する「前島部」も密になっていたというから、つまりはこうした情報が伝わりやすい脳になっているということだ。
一方、意思決定や共感などの認知機能にかかわる「前帯状回」からの神経回路は、被虐待歴のない人はたくさん伸びているのに、虐待を受けた人はスカスカの状態だったそうだ。
注目すべきは、これらの調査は病院で行われたものではなく、社会で普通に暮らしている人たちを対象にしたものだということ。どの人も18歳から25歳の調査時点ではPTSDを発症しているわけではなく、うつ病と診断されているわけでもない。大学に通ったり仕事をしていたりと、一般社会に適応している人たちだというのである。
こうした脳の変化は、疾患や障害の影響で起きたものではないということだ。にもかかわらず、トラウマの痕跡が脳に刻まれているのである。だとすれば、それが子ども時代の虐待によるものであることは、専門家でなくとも想像できることではないだろうか。
しかし、もしもそうであるなら、虐待を受けた人は、みんな不幸な人生を歩まなければならないのだろうか? この問いに対して著者は、「それはまた別の話」だと主張している。