「虐待が脳を変えてしまう」脳科学者からの目を背けたくなるメッセージ
そんな著者は2003年、小児精神医学を研究するためにアメリカへ留学している。マサチューセッツ州ボストン郊外にある、マクリーン病院の発達生物学的精神科学教室。同病院はハーバード大学の関連病院であり、全米で有数の質の高さを誇る精神科の単科病院だそうだ。
多くのセレブリティが入院することでも有名で、映画『ビューティフル・マインド』のモデルであり、ゲーム理論でノーベル経済学賞を受賞したジョン・ナッシュ博士も一時期入院していた。つまり、研究にはうってつけの環境だったわけだ。
しかし、そこを一歩出ると、待っていたのは虐待大国と揶揄されるアメリカの厳しい現実だった。日本ではまだ虐待がクローズアップされたばかりの時期だったこともあり、著者は大きな衝撃を受ける。
マクリーン病院でのわたしのボスは、マーチン・H・タイチャーであった。わたしの永遠の師匠の一人である。タイチャーは、小児神経科医から精神科医に転身し、虐待が脳に与える影響を研究していた。面接で初めて先生に会った時、先生はこう言った。「子どもの時に厳しい虐待を受けると脳の一部がうまく発達できなくなってしまう。そういった脳の傷を負ってしまった子どもたちは、大人になってからも精神的なトラブルで悲惨な人生を背負うことになる。」この言葉が、わたしのその後の仕事人生を変えることになった。(「はじめに――児童虐待との関わり」より)
虐待が脳を変えてしまう――。当然ながら、それは目を背けたくなる事実である。しかし著者は、それを多くの人に伝え、虐待の恐ろしさを知ってもらうことこそが使命だと考えているのだという。
なぜなら虐待を未然に防ぎ、影響を最小限にしていくためには、医療や福祉のみならず、たくさんの人がお互いに支え合わなければならないからだ。そこで著者は、虐待の種類や歴史と現状、脳の役割と発達などについて解説し、やがて虐待と脳の関係という核心と向き合っていくのである。
ところで本書において著者は、心理学者たちの見解に対して疑問を投げかけている。心理学者たちは最近まで、児童虐待の被害者は社会心理的発達が抑制され、精神防御システムが肥大するため、大人になってから自己敗北感を抱きやすいと考えていたという。
端的にいえば、精神的・社会的に十分に発達しないまま「傷ついた子ども」に成長してしまうということ。だから心理学者たちは、その傷ついた「ソフトウェア」は、治療すれば再プログラムできると考えたのだ。
トラウマを引き起こす3つの要因(生物学的要因・心理学的要因・社会的要因)の中の、心理学的要因と社会的要因を修復すればよいということになる。周囲の環境(社会的環境)を整え、どう物事を捉え考えるかという認知の方法(心理学的要因)を改善すれば完治するという発想だ。