「安楽死」を語る前に──各自が準備すべき未来の「死の計画書」
Thoughts About Dying
どんな最期を望むのか明確にしておくといいと、タウバートは説く COURTESY OF MARK TAUBERT
<縁起が悪いと言わず、死についてもっと話そう──安楽死合法化の動きが進む中、緩和ケアの専門医が「普通の死」を理解する重要性を説く>
数年に1度というほど安らかな死を目の当たりにしたのは昨年11月、「死者の日」のすぐ後のことだった。
年配の男性患者がよくうとうとするようになり、3日後に息を引き取ったのだ。鎮痛剤も吐き気や呼吸困難を和らげる薬も使わず、男性は家族にみとられて亡くなった。
数時間後、私は病棟でハロウィーンの飾り付けに使われていた死者の日の骸骨を見て、彼の死と一般的な死の捉え方について考えた。
死者の日はメキシコ伝統の祭りだ。その日メキシコでは人々が町に繰り出して陽気に死者をしのび、生の喜びを分かち合う。しかし私の住むここヨーロッパの人々が、そんなユーモアや祝祭感を抱いて死と向き合えるだろうか。
昨年、イギリスで医師が介助する安楽死をめぐって議論が活発化すると、世間の意識に「普通の死」が抜けていることが明らかになった。
一部の政治家や識者は苦痛を伴うむごい死が激増していると主張し、法改正を訴える。イングランドとウェールズの下院は11月、安楽死を選ぶ権利を認める法案を可決した。
ドイツ出身で、ウェールズで緩和ケアの専門医をしている私には思うところがある。
分かり切った話だが、人はいつか必ず死ぬ。緩和ケアには悲しみが付き物だが、そこには意外と冗談や率直な会話、時にはダークなユーモアさえ入る余地がある。
ユーモアを忘れず正面から死と向き合う患者には、どんなふうに死を迎えたいのか楽に尋ねることができる。苦痛を減らす方法も相談できる。