少女は熊に9年間拉致され、人間性を失った...... 「人さらい熊」の目的とは?
熊が子供をつれて、抱いて寝たらしい形跡
ところが翌日の午後3時頃、村人が山林を通行中、子どもの泣き声を耳にする。不思議に思って草むらに分け入って百間ほど進むと、「顔面虫にさされて血にまみれ虫の息となっているミツ」を発見。
その2間先に大きな熊がうずくまっているのを見つけて仰天し、村人はミツを抱え一目散に逃げ出した。ヒグマも驚いたのか、山中深く逃げ込んでしまったという。
『幌加内町史』によれば、「その場所をよく調べてみたところ熊の足跡が一面についており、熊が子供をつれて、抱いて寝たらしい形跡がありありとのこっていた」という。
このヒグマが女児と一緒にいたことは間違いないらしい。当時この事件は大衆誌『キング』にも掲載されて評判になったという。(大正13年9月2日付「小樽新聞」をもとに作成)
むしろ赤ん坊を助けようとした
ほかにも、次のような事件が報告されている。
ある日、二ッ岩というところで女性が畑仕事をしていた。そこに子供の泣き声が聞こえ、驚いて行ってみると、熊が女性の子どもをさらっていくところだった。
母親は驚いたが、死に物狂いで熊の後を追い、崖を登って熊に追い付いた。
熊は女性の執念に圧倒されたのか、子供を放し、山林の中に姿を消した。子供にはカスリ傷ひとつなかったという。(『北の語り 第二号』北海道口承文芸研究会の「羆見聞記 網走在住 小笠原勇氏」をもとに作成)
このヒグマも、赤ん坊に危害を加えるつもりではなかったらしい。むしろ、放置されている赤ん坊を助けようとしたようにも見える。
子どもを育てようとしたヒグマ?
次の悲しい事件も、もしかすると「人さらい熊」によるものかもしれない。
大正14年8月13日、北海道の勇払(ゆうふつ)郡厚真(あつま)村の中山長蔵の二男清治(6)は、兄(11)、隣家の遊び友達(11)と3人で、マッチ工場付近の小川で遊んでいた。
午後4時頃、急に清治がいなくなったので、兄と友達が急いで帰宅し、大人たちを呼んだ。消防組青年団員などが総出で三日三晩不眠不休で付近を捜索したが、清治は見つからなかった。
「大蛇に呑まれたのではなかろうか」とか、「頭は赤く首から下肢は真っ黒な老狐に連れて行かれたのだ」などと、さまざまな噂が立った。
事件発生から12日後の8月25日、炭焼き人夫が、事件現場から1里(4キロ)も離れた山中で幼児の死体を発見した。