なぜドラえもんの原っぱには「土管」がある? 東京の「トイレ」の歴史に隠された深いワケ
原っぱに土管があるドラえもんの世界はどのようにして生まれたのか? masao takeichi / photoAC
世界中の子供たちに長く愛読されている漫画『ドラえもん』。漫画の中では、たびたび原っぱで遊ぶ、のび太やドラえもんの姿が描写されています。その原っぱには「土管」が置かれていますが、実は日本のトイレの歴史と深い関わりがあります。ジャーナリストの神舘和典氏と文藝春秋の前副社長で編集者の西川清史氏が、あらゆる疑問を徹底取材したルポ、『うんちの行方』から抜粋・再構成して紹介します
戦後、下水・汚水処理場が次々とでき、砂町汚水処分場のような屎尿(しにょう)を処理する設備も整った。それでも、高度経済成長期の東京の人口は増え続け、当然排泄も増え続ける。汲み取りトイレもまだ多く、砂町汚水処分場だけでは処理できない量だった。
いまでこそ日本の水洗トイレ率(汚水処理人口普及率)は91.7%、東京は99.8%。しかし、1970年代は東京23区内ですら、鼻をつまみたくなるようなにおいが充満する汲み取りトイレの家庭は多かった。
練馬区でボットン便所が長く続いた理由
またしても私事で恐縮だが、筆者(神舘)が生まれ育った東京・練馬区の石神井の家はボットン便所だったし、杉並区の阿佐谷にある公立高校に進学したら、そこもボットン便所だった。
家でもボットン。学校でもボットン。入学式の日にとても悲しい気持ちになった。高校について厳密にいうと、母屋というべき鉄筋コンクリートの校舎は水洗トイレ。ところが、1年生にあてがわれていた教室は木造2階建ての離れで、そちらはボットンだったのだ。
練馬区あたりでなぜボットンが長く続いていたのか――。その理由の1つに、武蔵野のエリアが、良質な関東ローム層の土壌に恵まれ、すくすくと育つ練馬大根やキャベツ畑が多かったことがある。有機肥料を有効利用していた。
1970年代の石神井には、大きく分けて、3種類の人が暮らしていた。広い畑をもっていた地主、地主から土地を買って家を建てた人や地主の持つ賃貸物件に住む人たち、地主が東京都に売った土地に建った公団住宅に住む人たちである。
農業従事者が減り、地主たちは土地を手放していったものの、残っていた土地では家族で野菜を作っていた。そのためには、コストのかからない有機肥料があったほうがいい。石神井の周辺では化学肥料だけでなく有機肥料も使っていた。自分たちが経営する賃貸物件のトイレは汲み取り式にして、肥桶で屎尿を畑に運んでいた。
1950年代以前、農業従事者が多く一面の畑だった時代は屎尿が足りず、地主たちは各家庭をまわって集めていた。しかし1970年代になると畑も減り、地主が経営する賃貸物件の屎尿でほぼまかなえるようになったのだろう。