「1億円の借金を引き継いだ20代だった」 平田オリザ、こまばアゴラ劇場の40年をすべて語る
こまばアゴラ劇場の屋上にて HISAKO KAWASAKI-NEWSWEEK JAPAN
<現代演劇の旗手として、また文化政策のオピニオンリーダーとしても活躍する劇作家・平田オリザ。その活動拠点だったこまばアゴラ劇場が5月末で閉館した。40年の軌跡の先にあるものは?>
東京大学教養学部のある目黒区駒場。小さな商店街の外れに平田オリザと彼の劇団青年団の本拠地こまばアゴラ劇場(以下、アゴラ)がある。いや、今では「あった」とすべきか。
1984年に開館したアゴラは、2023年12月に翌24年5月末での閉館が発表され、24年4月からはサヨナラ公演として青年団の代表作4作品の連続上演が行われた。今回のインタビューはその公演の千秋楽に劇場の事務所で行われた。こまばアゴラ劇場はどのように生まれ、そしてなぜ閉館することになったのか。
──今でこそアゴラは平田オリザと青年団の劇場として知られていますが、どのように始まったのでしょうか。
もともとここは商店街の中の木造の2階屋で、1階の通り側を店舗で人に貸していて、僕はここで生まれ育ったんです。父は売れないシナリオライターだったのですが、若い頃に演劇もやっていたので夢だったんですよね、劇場を作ることが。それで土地を担保にしてこの建物を建てました。それがアゴラの始まりです。貸し劇場ですね。初期の頃には出川哲朗さんが座長で内村光良さん、南原清隆さんも入っていた劇団SHA・LA・LAも利用していました。
──叔父である大林宣彦監督の映画『廃市』を上映する予定もあったそうですが。
大林さんが商業系で売れ始めた頃で、「ちょっとプライベートフィルムみたいな作品を作りたい」ということで、それを上映して劇場建設の資金を一部回収する計画だったんですが、まずそこが頓挫しました。全部父が悪いんですけど、稽古場として申請しようとして、消防署の査察の時にたまたま僕が案内したのでよく覚えてるんですけど、「これはダメだね、どう見ても劇場だよね」となって、劇場として申請する必要が出てきた。
それから、当時は映画の興業組合の力が今より強い時期だったので、そっちの問題もありました。両方とも父がちゃんと手続きをしていなかったってことですね。それで、映画で2000万円回収するつもりだったのが、逆に2000万円くらい借金が増えてしまいました。
──そういう大変な状況のなか、平田さんが大学を出て、劇場支配人になられた。
そうですね。僕は86年6月に国際基督教大学を卒業しましたので、そこからずっと支配人です。
公共性のある民間劇場へ
──そうして、支配人をやっていくうちに、いわゆる民間劇場の貸し館という形に違和感を感じてきたそうですね。
そうですね。たまたま家業を継ぐことになって、一方では自分も学生時代から芝居をやっていた。だからうちの強みは、芝居をやる側として、劇場というのはどんなサービスが必要なのかを考えられたってことですね。野球で言えばプレイング・マネージャーみたいな感じです。
例えばどんな劇場にも音響や照明の機材はあるけれども、一方でどんな劇団も当日のパンフレットとか印刷するわけじゃないですか。それで当時はコピー代なんかも高かったから、小劇場として多分、日本で最初に高速輪転機を入れました。要するにみんなが使うものは置いておくべきじゃないかということです。これがのちのち劇場の公共性という考え方に繋がっていくんですけど。
それから劇場を経営しているとどんどんDMが送られてくる。それならデータベース化した方がいいじゃないかってことで、これも多分、日本で最初にパソコンを入れた小劇場だと思うんです。80年代末ですからまだNECのPC88とか98とかの時代です。それで名簿ソフトを買って、すぐにマスコミリストが500件くらいと、劇団名簿が2000件くらいになって、それは後々、日本劇作家協会の設立などでも役に立ちました。
セゾン文化財団も最初の頃はうちに名簿を買いに来てました。だって、データベースがないんだから、どこにも。本来だったら国立劇場とかがやるべき仕事ですが、当時は新国立劇場もまだなかったわけで。今でこそ当たり前のことですけれども、劇場がただ単なる上演空間ではなくて、インスティチュート、機能や機関であるっていうことを、おぼろげながら80年代末くらいに考えていました。
それと、うちは稽古場があってそこに泊まれるんですが、「なんか泊まれるらしいよ」と口コミで情報が広がり、地方の劇団が東京公演で使うようになりました。そこで僕もまだ時間がありましたから、夜行バスで仙台とか盛岡とか福岡の劇団を見に行って、面白い劇団を探し出して、「大世紀末演劇展」という地方の劇団をメインに紹介するような演劇祭をやりました。バブルの時期だったので演劇祭自体は沢山あったけど、多くは売れ筋の劇団を紹介するみたいなもので、そうじゃなくて、ある種のコンセプトをもった演劇祭っていうのは当時珍しかったと思いますね。