サッカー=ドイツ代表、「ベルンの奇跡」支えたアディダス捨て、ナイキに鞍替えの衝撃
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当日は大雨。その中で西ドイツが勝った要因の1つは、靴底のスタッドがコンディションに合わせてネジ式で取り替え可能なことだったとされる。この勝利は、戦後の西ドイツが国際社会に復帰する後押しになったともいわれる。
以来、アディダスはドイツサッカーとの結び付きを保ったが、今回の離別を機に語られているほど強い絆でもなかった。74年のW杯でも、西ドイツは大半の選手がアディダスのシューズを履いて優勝を遂げたが、代表ユニフォームはライバルのエリマ製だった。
代表との関係から売り上げを伸ばしたアディダスは、やがて外国の一流選手や有力チームとスポンサー契約を結ぶ。特筆すべきなのは、70年代に共産圏諸国と独占契約を結んだことだ。この流れから80年のモスクワ五輪で、ソ連選手団がアディダスのトラックスーツを着用。アディダスは東欧で大人気となり、このトレンドは今日まで続いている。
アディダスのルーツは、バイエルン州出身の兄弟がつくった会社だ。ルドルフとアドルフ(アディ)のダスラー兄弟は1920年代にシューズの販売を始め、30年代にはオリンピック選手に提供することで台頭した。アメリカの伝説的な陸上選手ジェシー・オーエンズは、36年のベルリン五輪で兄弟のシューズを履いて4つの金メダルを獲得した。
48年に2人がたもとを分かった理由は、今も謎に包まれている。これ以降、兄弟は二度と口を利かなかったとされ、互いに競合するスポーツシューズの帝国を立ち上げた。
このときアディがつくった会社がアディダスだ(社名はアディ・ダスラーの略)。兄のルドルフが創設した会社は最初「ルダ」(ルドルフ・ダスラーの略)と名付けられたが、すぐに「プーマ」に変更された。
その後、世界屈指のスポーツシューズメーカーに上り詰めたアディダスとプーマは、第2次大戦の敗戦国であるドイツが世界に冠たる工業大国にのし上がった「経済の奇跡」を象徴する存在になった。
2つの会社は「サッカーで世界の頂点を目指すだけでなく、輸出大国としても頂点を目指そうという、ドイツの不屈の精神を体現していた」と、ドイツのスポーツ文化史を専門とする英ダラム大学のケイ・シラー教授は言う。
こうした経緯を考えると、アディダスがドイツ代表との契約を失ったことの意味はあまりに重い。この数年間苦しい状況が続いていたアディダスは、今回の一件(同社にとっては青天の霹靂〔へきれき〕だったとされる)によりメンツをつぶされた格好だ。