ルイス・キャロルが児童文学に加えた「心地よい魔法」とは?──ゴールデンウィークに読破したい、「心に効く」名文学(2)
ジョン・テニエル卿による1871年の『不思議の国のアリス』の挿画 duncan1890-iStock
<音楽も韻もリズムもないのに、児童文学に不快感を抱くことがないのはなぜなのか? 「音楽構造」と「物語構造」から読みとく、「文学の効能」について>
※芥川龍之介と黒澤明の『羅生門』で心をリセットする──ゴールデンウィークに読破したい、「心に効く」名文学(1) から続く。
人が物語に救われてきたのはなぜか? 文学作品が人間の心に作用するとき、我々の脳内では何かしらの科学変化が起きているのだろうか。
版権の高騰がアメリカで話題となった、世界文学を人類史と脳神経科学でひも解く、文理融合の教養書『文學の実効 精神に奇跡をもたらす25の発明』(CCCメディアハウス)より第18章「創造力を育む」を一部抜粋する。
新種の児童文学
19世紀のイギリスは、子どもにとってあまり楽しい場所ではなかった。貧しい家庭の子どもは、少なくとも5歳になるころには働き始め、炭鉱や織物工場、ガス工場、造船所などに送られた。
そんな子どもを守ってくれるのは、1日10時間以上の労働を禁止するあてにならない法律だけだった。裕福な家庭の子どもであれば、それほど悲惨な境遇こそ免れられたものの、そこが楽しい場所ではなかったことに変わりはない。
子どもたちは、ヴィクトリア朝社会の2つの原則を叩き込まれた。理性と道徳である。良識的にふるまい、神の掟に献身的に従うことが求められた。これでは、想像的な遊びの余地がほとんどない。
そこで画家・詩人・ピアニストだったエドワード・リアは1846年、この事態を打開しようと五行戯詩集『ナンセンスの絵本』を出版した。1871年には、子どもたちの状況のさらなる改善を目指し、五行戯詩の型どおりのリズムに沿わない、創意に満ちた児童詩を発表している。
フクロウと小ネコが海に出た
きれいなうすみどりのボートに乗って
ハチミツとって、たんまりかせいで
五ポンド札に首ったけ......
ミンチとマルメロでごちそうだ
先割れスプーンでいただいて
それから浜辺で手に手をとって
月明かりの下おどったよ
月明かり
月明かり
月明かりの下おどったよ
これは『フクロウと小ネコ』という詩だ。『ヘイ、ディドル、ディドル』と同じように、韻とリズムの音楽構造に乗せて、「そうだね、それなら」を連ねている。そのうえ『ヘイ、ディドル、ディドル』より一歩先へ進み、読み手にいっそう複雑な筋を提供している。
それは、海に出てハチミツを採り、ピクニックでマルメロを食べ、月明かりの浜辺で踊るストーリーへと読み手を導き、この長い即興的な旅を通じて読み手の脳を未知の物語へと拡張する。
こうした詩は、ヴィクトリア朝時代の多くの読者に喜ばれた。すると、同時代のある作家がこう考えた。「そうだね、それなら」をもっと拡張できないか? この筋をさらに発展させられないか?