波乱万丈なグッチ一族を描く『ハウス・オブ・グッチ』の、華麗で退屈な魅力
House of Goofy

PHOTO BY FABIO LOVINO. MGM.ーSLATE
<お家騒動、ロマンス、殺人事件と何でもありの映画『ハウス・オブ・グッチ』は楽しむが勝ちの怪作>
『ハウス・オブ・グッチ』という映画を、どう理解すればいいのだろう。
共同脚本のロベルト・ベンティベーニャが言うような、『ゴッドファーザー』の流れをくむクライムサーガ? 歌姫レディー・ガガを主演に迎え、イタリアの名匠ルキノ・ビスコンティ風の重厚さを加えたメロドラマ? それとも高級ブランドの創業家で繰り広げられただまし合いを暴くビジネス物だろうか。
実際は、とびきりゴージャスな舞台にその全てを盛り込んだ怪作だ。
サラ・ゲイ・フォーデンによる同名ノンフィクション(邦訳・ハヤカワ文庫)を下敷きにしたこの映画、私も『ロッキー・ホラー・ショー』の応援上映のようなお祭り騒ぎとして純粋に楽しみたかった。隣の席で大笑いしている友人が羨ましかった。
とはいえ評論家として言わせてもらうなら、デザイナーの座を狙うパオロ・グッチをハゲ頭のカツラをかぶって熱演したジャレッド・レトなどに笑いを誘われはしたが、約2時間40分近い上映時間があっという間に過ぎる傑作ではなかった。全6話ほどのテレビドラマとして制作したほうがよかったのだろう。とにかく話を詰め込みすぎていて、バランスが悪い。
商才のあるパトリツィア・レッジャーニ(ガガ)と弱気な御曹司マウリツィオ・グッチ(アダム・ドライバー)の愛憎。『リア王』風の跡目争い。あるいはパオロと豪快な父アルド(アル・パチーノ)、マウリツィオと用心深い父ロドルフォ(ジェレミー・アイアンズ)の対立と和解。
どれか1つだけでも面白い映画になったはずだが、それをリドリー・スコット監督が無理やり1本にまとめたために、不格好な仕上がりになった。だが不思議と人の心を捉える力はある。
展開は、観客が置いてきぼりにされるほど速い。登場人物の人生の最も興味深い部分をすっ飛ばし、ミームになりそうな見せ場から見せ場へと移り変わるのだ(84歳のスコットが「ミーム」を理解しているとは思えないが)。
トーンが定まらないのも魅力のひとつ
トーンが統一できていないことが問題なのだが、ファンにとってはそれも、この見事なまでに雑然とした映画の魅力だろう。犯罪実録物なのかラブロマンスなのか、はたまた企業ドラマなのか、ジャンルがちっとも定まらない。
また、ドライバーがここまでミスキャストに見える映画も珍しい。人の意見に振り回される小心者のマウリツィオは、めったなことでは動じそうにない大柄な彼のイメージと懸け離れている。
出演者が口にするイタリア語なまりの英語も、全体のトーンと同様に不安定だ。イタリア語のアクセントを操り、マフィアめいたファッション帝国の一員を演じて説得力があるのはガガとパチーノのみで、2人はどちらもニューヨーク育ちのイタリア系だ。