「利他学」を立ち上げ、いまの社会や科学技術のあり方を考え直す──伊藤亜紗
そしていま、伊藤は改めて"働くこと"を問い直す。労働生産性など数字だけで評価されがちなことに疑問を抱いているのだ。
「人は数字のためだけに働いているわけではないんです。働くことで社会の一員として認められ、充実感や自己肯定感も得られます。たとえば駅員は利用者が困った際に手助けをしても、売り上げにはつながりませんが、大切な業務のひとつです。人をケアすることも大切だという感覚が広がっていけば、経済活動全体の意味も変わってきます」
そこで伊藤が提案するのが、締め切りや納期で人をしばらないことだ。
「たとえば、雑誌をつくるなら発売日を決めない。次の発売は少し間が空きますが、ページ数は3倍にします、ということがあってもいい。小説家は締め切りを決めずに書く人も多くて、出版社も『待望の新作』と売り出します。そういうビジネスモデルがもっといろいろなところで成立してもいい」
ファッション界でも新しい取り組みが始まっている。
「知り合いのデザイナー、幾田桃子さんはパリコレから逆算して納期を決めていたのをやめ、つくりたい時につくることにしたそうです。すると職人さんとの関係も変わり、互いに意見を交わして刺激し合いながら制作できるようになってきたというのです」
伊藤のこうした物事への興味の抱き方も、まさに利他と言えるのではないだろうか。
「正直なところ、読者を意識するよりもいつも自分の興味があることをただひたすら追いかけているだけなんです」
美学者の伊藤に最近、美を意識した出来事について訊いた。
「アメリカ滞在中に、英語で会話をしていて、すごくどもってしまったことがあったんです」
吃音をもつ伊藤は、英語を話す際にその傾向が出やすいという。
「けれどもその時、相手は"It's a beautiful thing."と言いました。こういう場合に"beautiful"という言葉を使うんです」
伊藤は今後も既存の価値にとらわれない言葉をすくい取るだろう。多くの人にクリエイティブな思考を与えながら。