ジョン・レノンが暗殺の直前に語った家族と反戦とビートルズ【没後40周年特集より】
このインタビューで「2人は互 いにスピリチュアルなメン ターだ」と語った PENNY TWEEDIEーCORBIS/GETTY IMAGES
<「イクメン」ジョンが音楽活動再開後に単独インタビューで語った赤裸々な自分自身>
ビートルズの解散から9年間、ジョン・レノンには波乱の日々が続いた。アメリカの永住権取得をめぐって移民局と4年間闘い、妻のオノ・ヨーコと18カ月の別居をし、息子のショーンが生まれた。そして1975年からは公の場から姿を消した。
しかし40歳の誕生日を前に、新アルバムを引っ提げて戻ってきた。『ダブル・ファンタジー』と題された新作は、さながら「ある結婚の風景」の物語で全14曲から成る。ジョンが7曲、ヨーコが7曲を担当した。作風は、ジョンによる乗りのいい「スターティング・オーヴァー」からヨーコのゴスペル的な「ハード・タイムス・アー・オーヴァー」、夢想的な「ビューティフル・ボーイ」、攻撃的な「キス・キス・キス」まで幅広い。実に自然で、広い層に受け入れられそうだ。
数年前、この夫婦は役割を交代した。ジョンは家事と育児を受け持つ「主夫」となり、今はヨーコがビジネス面を担当している。彼らが所有する不動産は広範囲に及ぶ。マンハッタンのダコタハウスに5つの部屋を持ち、フロリダのパームビーチの邸宅からニューヨーク郊外の山荘、それに4つの酪農場のオーナーだ。
先ごろ本誌米国版のバーバラ・グラウタークはジョンとヨーコのインタビューに成功した。細い体をリーバイスと普段着のシャツに包み、フランスたばこをふかし、寿司をつまみながら、ジョンは自分自身について大いに語った。
――1975年に公の場から姿を消したのはなぜ? 音楽を作るのが嫌になった、あるいは音楽ビジネスが嫌になった?
ジョン その両方だ。僕は22歳のときから契約に縛られてきた。金曜日までに何曲書かなくてはならないとか、土曜日までにシングルを出さないといけないとか、いつも追われていた。自由が欲しくてアーティストになったのに......学校のクラスにも会社のオフィスにもなじめない変わり者にとって自由はプラスにしか働かない。でも気が付けばレコード会社に対する義務、マスコミやファンに対する義務に縛られていた。全然自由じゃなかった! 僕は何度も姿を消した。取るに足らないパフォーマーの顔だけじゃなく、修道士的な一面もあるからね! 音楽ビジネスで恐れているのは、(当時人気だったポップアーティストの)アンディ・ウォーホルと一緒に(当時ニューヨークで有名だったディスコクラブの)ゼノンに行かなければ「消されて」しまうってこと。だけど、ビルボード誌の購読をやめたって死ぬことはないと悟った。