【歌舞伎の歴史】400年前、1人の女性の念仏踊りから始まった
ひと口に歌舞伎といっても舞踊的なものから人情劇や心理劇的なものまで、驚くほどジャンルの幅が広い芸能だ。
「『歌舞伎はカイミーラ(キマイラ)(7)だ』と小説家の坪内逍遥は言いましたが、あまりに多岐にわたっている歌舞伎をヌエのような怪物にたとえたんですね」
そんな歌舞伎も、現代では「古典芸能」とひと括りに位置付けられ、特別な存在になったことは否めない。
「いまはグローバリゼーションの時代といわれますが、固有の文化をもっていないと自分のアイデンティティが行方不明になってしまう。日本人にとって自分の国の文化を知るために、歌舞伎は一番とっつきやすいのでは」
日本には、戦争によってそれまで続いてきた文化が断絶してしまった時期があると松井さんは言う。
「ひと昔前は文字が読めなくても歌舞伎のせりふを知っている人がいたし、それを前提として話をしていました。いまでいうお笑いの人たちの喜劇映画でも、それが歌舞伎のパロディだったりした。何でも歌舞伎にたとえたほうがわかりやすいほど、エンターテインメントとして流通していたんですね。ところが第二次世界大戦によって、大正末から昭和ひとけた生まれ以降の世代は、それまでの日本文化と断絶されてしまった。歌舞伎が日常の娯楽からかけ離れて、"教養"にならざるを得なくなったのです」
メジャーな娯楽としての歌舞伎から教養としての歌舞伎に変容していくなか、歌舞伎そのものも変化したという。
「昔は皆がストーリーを知っていたから役者もクライマックスだけたっぷり演じて、観客もここぞという時にメリハリをつけて見てましたね」
開幕と同時に拍手が起こったり、スタンディングオベーションしたりと観客の反応も西洋化されたという。
「でも、そういう変化を受け入れてきたからこそ、歌舞伎は続いているんです。江戸時代の文献には『ああ、そこがカブキなんですよ』という言い方があって、それは歌舞伎だから固いこと言わないでおきましょう、という意味です。能や文楽は『本行(ほんぎょう)』だけど、本行からちょっと逸れているもの、それが歌舞伎なんです。あまり突き詰めずに、楽しければいいという感覚。そういう認識があれば、歌舞伎なんだから変わっていくのが当然です。阿国歌舞伎の時代と比べたら同じ歌舞伎とはいえないくらい変容しています」
(Text:久保寺潤子)
※後編:【歌舞伎の歴史】あまりの人気ゆえ、弾圧された時代もあった
1:阿国
出雲国(島根県)から京都に上ってきた「クニ」という名の踊り手を中心とする一座は、京都の五条河原や北野天神の境内に舞台をつくり「ややこ踊り」を興行。宮中や貴族の邸にも出向き芸を披露した。
2:風流
応仁の乱で多数の死者が出た際、その霊魂を慰める盂蘭盆会(うらぼんえ)の御霊会(ごりょうえ)に行った芸能。やがて身分を超えて皆が楽しむ娯楽となった。
3:若衆歌舞伎
美貌の若衆たちがかぶき者に扮して茶屋へ乗りこみ、茶屋女を相手に官能的な姿で踊った。この頃、若衆役者の中から女の役を得意とする者が現れて女形の原型が成立し、所作事(歌舞伎特有の身振り、仕草、身のこなし)の基礎がつくられた。
4:猿若狂言
初期歌舞伎の中で、滑稽な物真似芸や道化た所作などのユニークな技芸。
5:野郎歌舞伎
「若衆」のシンボルであった前髪を剃り落とし、野郎頭で演技をすることを義務付けられると、官能的な舞や踊りだけで観客を喜ばせることができなくなったため、力を入れたのが「物真似狂言」である。
6:物真似狂言尽くし
1653年、政府は若衆も女性も出演させず、「かぶき」ではなく「物真似狂言尽くし」と名乗ることを条件に再開を許可。より写生的な演技を求められた物真似狂言では、男が女役を演じることになり、ここで女形(方)が誕生することになる。またそれまで一幕物の構成だった「離れ狂言」を5、6番ずつ続けて上演し、1日のレパートリーを構成するようになった。
7:カイミーラ(キマイラ)
獅子と山羊と龍の頭が一つの胴にくっついている三頭怪獣のこと。歌舞伎の多面的性格を言い表している。坪内逍遥(1859~1935年)は、小説家としてのみならず、劇作家としても活躍、シェイクスピア全集の翻訳も手がけ、演劇に造詣が深い。
『Pen BOOKS そろそろ、歌舞伎入門。』
ペン編集部 編
CCCメディアハウス