両腕のない世界的ホルン奏者の願いは「普通と見られたい」
読者は腕がないことを忘れ、人生に向き合う機会を得る
この本の魅力はなんといっても、クリーザーの妥協を許さない向上心とユーモアあふれる軽妙かつ強気な語り口だろう。インタビュー形式による自伝のため、ドイツ語の原文も生き生きとした話し言葉で記述されている箇所が多い。
隅々にまで目を配る緻密さ、あふれ出る自信とそれを支える努力、つねに高みを目指そうとする23歳(当時)の若者の姿勢は読者に強い印象を残すはずだ。一方で幼少期のエピソードや、アルバムデビューに関連して発生するハプニング、ピアニストのクリストフとの掛け合いからは魅力的な人柄を窺い知ることができる。
クリーザーは本書で、腕がないことを強調しようとする周囲の態度に対して不服を申し立てる。そのような周囲の対応は、ときに彼に失礼なことを強いることがあるのだ。
しかし、登場するエピソードや彼の語り口によって、読者はクリーザーに腕がないことを忘れ、クリーザーと共にデビューアルバムが無事に成功するのかという緊張感に包まれながら、自身の人生に向き合う姿勢を見つめ直す機会を得られる。
印象的なセンテンスを対訳で読む
最後に、本書から印象的なセンテンスを。以下は『僕はホルンを足で吹く』の原書と邦訳からそれぞれ抜粋した。
●Wenn du etwas haben willst, arbeite dafür -- und wenn du es nicht bekommst, dann jammere nicht, sondern akzeptiere es.
(何かを得たいのであれば、そのために頑張りなさい――それが手に入らなくても、駄々をこねずにそれを受け入れなさい、ということだ)
――クリーザーの母の教育方針。両親には腕のない子供に特別プログラムを受けさせる考えはなかった。努力すること、何かのせいにしないこと、ありのままの自分で生きていくこと、というこの教育方針によって、同氏は他の子供と同様、「すべてを自分のやり方で学習しなくてはいけない」ということを学ぶ。
●Unangenehm wird es im Leben immer erst dann, wenn du etwas willst.
(何かを望んで、はじめて人生にはやっかいごとも生じてくる)
――クリーザーは16歳のときのインタビューでホルンを職業にすることについて問われ、同席していた先生に「趣味以上のものはない」と言われてしまう。これがターニングポイントとなってプロの奏者になることを決断し、そのための必死の努力が始まる。
●Dass ich ein normales Leben f'ühre, sollte mich nicht zum Vorbild machen. Denn nur wer sich selbst als normal betrachtet, kann auch von einer Gesellschaft verlangen, als normal betrachtet zu werden.
(僕は普通の生活を送っているんだから、障害者の手本にはなれない。自分自身が普通だと思っているし、社会からも普通だと見られたいんだ)
――クリーザーは「成功した障害者のモデル」という役を押し付けられることがある。彼は腕のない生活が大変なのは、腕のないことが原因ではなく、それを「普通」ではないとして際立たせようとする他人の存在が原因だと言う。彼の視点で見れば、腕のある人間が長い指を絡ませてペンを持つほうが不思議なのだ。
クリーザーのように「貪欲に完璧さを追求する」ことは簡単ではないかもしれない。それでも、目標達成に向かってストイックに努力するその生きざまは清々しく、自分は自分自身の人生に真摯に向き合っているだろうか、ということを問われる一冊である。
『僕はホルンを足で吹く――
両腕のないホルン奏者 フェリックス・クリーザー自伝』
フェリックス・クリーザー、セリーヌ・ラウワー 著
植松なつみ 訳
ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス
トランネット
出版翻訳専門の翻訳会社。2000年設立。年間150~200タイトルの書籍を翻訳する。多くの国内出版社の協力のもと、翻訳者に広く出版翻訳のチャンスを提供するための出版翻訳オーディションを開催。出版社・編集者には、海外出版社・エージェントとのネットワークを活かした翻訳出版企画、および実力ある翻訳者を紹介する。近年は日本の書籍を海外で出版するためのサポートサービスにも力を入れている。
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