映画《東京オリンピック》は何を「記録」したか
「記録」の考え方も違った 1964年と2020年の二つの東京オリンピックの間に横たわっているのは、メディアの進展とともに変わった人々の感性かもしれない(2013年に東京・丸の内で開かれたオリンピックがテーマの報道写真展の展示) Yuya Shino-REUTERS
二〇二〇年の東京オリンピックの開催が、国立競技場やエンブレムの問題などで最初からつまずいている。そんな折、一九六四年の東京オリンピックの記録映画《東京オリンピック》をじっくり見る機会があった。オリンピック映画史上最高とも評される市川崑監督の作品である。見直してみると、この五〇年余の間の世の中の変化の大きさをあらためて感じる。
莫大な資金を投入し、あらん限りの趣向を凝らした最近のオリンピックを見慣れた目には、久しぶりに見るこの六四年の東京オリンピックの開会式は、ほとんど小中学校の運動会の延長線上にあるくらいに質実剛健で簡素なものだ。「ミスター・アマチュア」と呼ばれたブランデージ会長のもと、テレビの放映権料の世界などともほとんど無縁であった、そんな時代の空気をこの映画は見事に映し出している。
しかし変わったのは、この映画に「記録」されているオリンピックの中身だけではない。「記録」している当の映画の側のあり方にも、実はいろいろ不可解なことがあるのだ。
そのことを認識したきっかけは、開会式の入場行進シーンだった。入場行進の伴奏は、古関裕而の《オリンピック・マーチ》を軸に、タイケの《旧友》、スーザの《海を越える握手》などの有名曲がところどころに挟まれる構成になっていたのだが、映画に出てくるドイツの入場シーンで背後に鳴り響いていたのは、《オリンピック・マーチ》の中間部だった。ところが、NHKの当日の中継映像を見て驚いた。同じドイツの行進シーンで流れているのは《海を越える握手》であり、しかもテレビの実況担当の北出清五郎アナウンサーがご丁寧にも「曲は《海を越える握手》に変わりました」というナレーションまで入れている。そのつもりで見比べると、アメリカの行進シーンも映画では《旧友》なのに、中継映像では《オリンピック・マーチ》で全く合っていないし、あとは推して知るべしである。要するに、映像と一緒にとられた音とは全く違う音が流れているのだ。
もちろん、実況映像ではなく、音楽をバックグラウンドに流し、その上に映像を配置したものだと考えれば別に目くじらをたてるほどのことでもない、と考える向きもあるかもしれない。だが、そうはいかない。どうみてもあれは「実況映像」のつくりである。NHKのアナウンサーによる実況中継音声が重ねられており、誰だって「生」の音声だと思うだろう。
そこで今度は実況中継音声の方をみてみた。鈴木文弥アナウンサーのあの名調子である。開会式では鈴木アナはラジオの中継を担当していたので、当時つくられた東京オリンピック記録レコードにおさめられたラジオ中継の録音をきいてみると、驚いたことにこれまた違うのである。たしかに同じ鈴木アナの声には違いなく、同じフレーズも随所に出てくるのだが、微妙に言い回しが変わっていたり、出てくる箇所が違っていたりする。映画のために新たに録音しているのだ。全体に台詞は切り詰められ、凝縮されており、いわば効果音的に挿入することで、それを核に全体をひとつにまとめ上げるような使い方をしているのである。