歴史の中の多様な「性」(3)
さらに、男色と同性愛は、もっと根本的なところから異なっていると私は考えるようになった。その説明には、私が『岩波講座 日本の思想 第5巻 身と心』掲載の「性と愛のはざま─近代的ジェンダー・セクシュアリティ観を疑う─」で使った「川の流れの図」を使うのがわかりやすい。
説明のしやすさから、まず近代のセクシュアリティ観を示す「川の流れの図」から見てみよう(図4)。
境界の川は「男」と「女」の間を流れている。「川」を挟んで成り立つ愛が異性愛である。それに対して、「川」の同じ側でなされる愛が同性愛である。愛は「川」(境界)を越えて成り立つとされていたので、境界を越えない同性愛は「変態性欲」として強く忌避されていた。
一般的には、こうした「川」の流れは、古今東西普遍で変わらないとイメージされている。しかし、本当にそうなのだろうか? 日本の前近代のセクシュアリティの在り様を見ていると、どうもこの図にうまく乗らないのだ。そこで、私は次のような前近代のセクシュアリティ観に適合するような「川の流れの図」を描いてみた(図5)。
境界の川は「大人(男)」と「子(女子・若衆)」の間を流れている。「大人(男)」からすれば、「子」である「娘」(女子)と「若衆」(男子)は同じく「川」の向う側にいる存在であり、ともに大人(男)が「色」を仕掛ける対象という点で近似し互換可能である。「色」が「娘」に向かえば「女色」で、「若衆」に向かえば「男色」になるが、両者は「川」(境界)を越えるという点で根本的に差がなく、固定化もされていない。
「若衆」は、成長して元服すれば、境界の川を渡って「大人(男)」になり、今度は「色」を仕掛ける側になる(年齢階梯性的循環と永続性)。「娘」も結婚すると境界の川を渡って「大人(男)」の「妻」(妾)になる。「大人(男)」にとって「妻」は「川」の同じ側の存在なので、「色」の対象にはならない。もちろん、子孫をもうけるための性行為はするが。ちなみに「若衆」と「娘」の間には小川が流れているので、「川」(境界)を越える形で「恋」は成立する。