歴史の中の多様な「性」(3)
こんな「川の流れの図」を描いてみると、「女色」と「男色」の対置構造や可変性、「娘」と「若衆」の服装の類似(髪形・振袖)などが説明しやすくなる。
しかし、こういう説明をすると「若衆だって体は男じゃないか。だったら川の同じ側だろう」という反論が必ず出てくる。それに対して私は「そうした性別の身体構造決定主義こそが近代思想なのではないでしょうか」と問いかけたい。
現代の男の子、女の子は、幼児の頃から大人の男性と女性のミニチュア版のような恰好をしている。それに対して、前近代では、庶民の男の子と女の子のファッションの違いは大きくない。髪形も服装も似たようなものだった。それより子供と大人のファッションの違いが大きい。とりわけ、男の子は元服によって、髪形や服装(袖の丈や模様)が大きく変わる。藤本箕山『色道大鏡』(一六七三‐八一年頃)には「前髪を落とし、男に成より」とあり、「若衆」は元服によって「男に成る」ことが記されている。つまり、元服前の「若衆」は「男」ではないことになる。
さて、「若衆」は「男」ではないということになると、大人の男と若衆の性的関係(男色)において、お互い相手を「同性」(同じカテゴリーの人)とは思ってはいないのではないか? という疑いが濃厚になる。そうであるならば、男色は「同性愛」ではないことになる。
さらに言えば、前近代の日本では「同性」という言葉はほとんど使われない。そもそも「性」という言葉にsex(身体的性)もしくはgender(社会的性)という意味がない。「性」は「しょう」であり、和訓すれば「さが、たち」である。「本性(ほんしよう)」とか「習性(ならいしよう)」という言葉があるように「そのものの本質・属性」という意味だ。あえて言えば、その「本質・属性」の一部にsexもしくはgenderが含まれることがあるということ。「性」がsexもしくはgenderという意味になってくるのはだいたい幕末以降のことである(齋藤光「性」『性の用語集』講談社現代新書)。だから仮に「同性」という言葉があったとしても、それは「どうしょう」と読んで「同じような属性を持っている人」、たとえば仁義に篤い人という意味にしかならない。
まとめるなら、前近代の日本では「同性愛」という概念は存在しない、いや、し得ないと言った方がいい。男性同士の性愛は「男色」として概念化されていたが、それは成人した男性と元服前の少年の関係が主で、成人男性同士の性愛を中心とする「男性同性愛」とはかなり異なる。「男色」は文化的、環境的な要素が強く影響していて後天的かつ可変的である。それに対して「同性愛」は先天的かつ不変的とされている。「男色」と「同性愛」は似て非なるものなのだ。
※第4回:歴史の中の多様な「性」(4) はこちら
[執筆者]
三橋順子(性社会・文化史研究者)
1955年生まれ。専門はジェンダー/セクシュアリティの歴史。中央大学文学部講師、お茶の水女子大学講師などを歴任。現在、明治大学、都留文科大学、東京経済大学、関東学院大学、群馬大学医学部、早稲田大学理工学院などの非常勤講師を務める。著書に『女装と日本人』(講談社)、編著に『性欲の研究 東京のエロ地理編』(平凡社)など。
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