最新記事

社会

英語による覇権は、希望か絶望か

英語は「ニュースピーク」ではないが、その世界言語としての地位は思考枠の均質化を招くかもしれない

2015年9月4日(金)16時30分
今井亮一(東京大学大学院人文社会系研究科、2014年度サントリー文化財団鳥井フェロー) ※アステイオンより提供

LanceB - iStockphoto.com

 1つの言語が世界を覆う――この状況に私たちは、希望と絶望を同時に見ることができる。一方のユートピアの極は、言わば「バベルの前」だ。そこでは人々がスムーズにコミュニケーションをとることができ、まさに神をも畏れぬ大事業を企てることもできる。そしてもう一方のディストピアの極は、ジョージ・オーウェルの『1984年』が垣間見せてくれる。

 独裁者「ビッグ・ブラザー」、相矛盾する考えを同時に信じる「二重思考」など独自の用語で知られる『1984年』だが、わざわざ「補遺」まで付けて説明される「ニュースピーク」はこれらに比べ知名度が劣るかもしれない。党が英語に代えて普及を目指す、語彙を削ぎ、文法・発音を徹底的にシンプルにした言語のことだ。普及した暁には、反体制的な思考が原理的に不可能になると言う。言語を変えるだけで思考統制なんてできない、と思えるかもしれない。しかし例えば、「虹が7色に見えるから7色の言葉があるのか、それとも、7色に該当する言葉があるから虹は7色に見えるのか?」という認知言語学の問いを思い出せば、単純な言語では世界も単純に見え、ひいては複雑な思考が不可能になるという思惑もにわかに説得力を持つだろう。

 もちろんこれは極端な例で、今や世界言語たる英語はニュースピークではない。しかし、「文書を英語で作成しなければならない」と言われるとき、そこには「論展開などは英語のフォーマットに従わなければならない」といった含意もある。あるいは文学作品や映画の場合、「英語で流通しなければ意味がない」といった言が一定の説得力を持ってしまい、英訳されるには英語になって(も)楽しめる内容でなければならないという基準が出来てしまうならば、「世界言語としての英語」が思考枠の均質化を招く可能性も否定できないだろう。

 さて、2015年6月16日(火)に国際文化会館にて開かれたサントリー文化財団フォーラムでは、日本文学に携わる二氏を招き、『アステイオン』82号でも特集された「世界言語としての英語」をテーマに講演が行われた。村上春樹や谷崎潤一郎の作品を翻訳しているチェコのトマーシュ・ユルコヴィッチ氏と、上海生まれで現在は明治大学で教鞭をとる張競氏である。ここでの両氏の講演は、上で見たディストピアを逆照射した体験だと言える。2氏ともに外国語を、自国語だけでは見えなかった世界へのパスポートのように捉えていたからだ。

 確かにオーウェルは「東側」をモデルに『1984年』を書いたとされるが、言うまでもなくチェコ語も中国語もニュースピークでは全くない。(それを言えば、メディアに溢れる日本語だけで事足りるように感じられてしまう現在の日本の方が『1984年』に近いだろう。)にも拘わらず、そこに外国語という補助線を得て、さらには翻訳という作業を経ることで視野が広がったという話は、外国語学習が持つコミュニケーション手段の獲得という以上の意義を、改めて鮮やかに示すものであった。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

ヒズボラ、テルアビブ近郊にロケット弾 ベイルート大

ワールド

ウクライナ制圧のクルスク州、ロシアが40%を奪還=

ビジネス

ゴールドマンのファンド、9億ドル損失へ 欧州電池破

ワールド

不法移民送還での軍動員、共和上院議員が反対 トラン
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:超解説 トランプ2.0
特集:超解説 トランプ2.0
2024年11月26日号(11/19発売)

電光石火の閣僚人事で世界に先制パンチ。第2次トランプ政権で次に起きること

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋トレに変える7つのヒント
  • 2
    「ダイエット成功」3つの戦略...「食事内容」ではなく「タイミング」である可能性【最新研究】
  • 3
    「このまま全員死ぬんだ...」巨大な部品が外されたまま飛行機が離陸体勢に...窓から女性が撮影した映像にネット震撼
  • 4
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 5
    寿命が5年延びる「運動量」に研究者が言及...40歳か…
  • 6
    日本人はホームレスをどう見ているのか? ルポに対す…
  • 7
    北朝鮮は、ロシアに派遣した兵士の「生還を望んでい…
  • 8
    クルスク州のロシア軍司令部をウクライナがミサイル…
  • 9
    元幼稚園教諭の女性兵士がロシアの巡航ミサイル「Kh-…
  • 10
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」…
  • 1
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 2
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋トレに変える7つのヒント
  • 3
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」に警鐘【最新研究】
  • 4
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り…
  • 5
    自分は「純粋な韓国人」と信じていた女性が、DNA検査…
  • 6
    日本人はホームレスをどう見ているのか? ルポに対す…
  • 7
    北朝鮮は、ロシアに派遣した兵士の「生還を望んでい…
  • 8
    Netflix「打ち切り病」の闇...効率が命、ファンの熱…
  • 9
    「このまま全員死ぬんだ...」巨大な部品が外されたま…
  • 10
    2人きりの部屋で「あそこに怖い男の子がいる」と訴え…
  • 1
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」に警鐘【最新研究】
  • 2
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参加で「ネットの自由」を得た兵士が見ていた動画とは?
  • 3
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 4
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋…
  • 5
    外来種の巨大ビルマニシキヘビが、シカを捕食...大き…
  • 6
    朝鮮戦争に従軍のアメリカ人が写した「75年前の韓国…
  • 7
    自分は「純粋な韓国人」と信じていた女性が、DNA検査…
  • 8
    北朝鮮兵が味方のロシア兵に発砲して2人死亡!? ウク…
  • 9
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り…
  • 10
    足跡が見つかることさえ珍しい...「超希少」だが「大…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中