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英語による覇権は、希望か絶望か

2015年9月4日(金)16時30分
今井亮一(東京大学大学院人文社会系研究科、2014年度サントリー文化財団鳥井フェロー) ※アステイオンより提供

 当たり前のことだが、翻訳は複数言語に精通する必要がある。「世界言語としての英語」を教育問題と絡めて論じる際、英語学習に押されて母語が疎かになる危険性がよく指摘される。いわば母語がニュースピーク化するわけだ。フォーラム当日、やはり日本の英語教育に絡んだ質問を受けた張氏の、「母語以上に外国語が上手くなることはない」という鋭い答えが、その危険を物語っている。母語もまた学ばなければ、その質が落ちていく。翻訳は複数言語に精通する必要があるというのは、外国語学習だけでは不十分だという意味もある。

 文学史を振り返れば、優れた翻訳は言語を豊かにしてきた。明治日本で西洋語の翻訳が日本語の幅を広げたという話は有名だと思われるが、英語もまた、その表現の最高峰にシェイクスピアと並んで必ずや欽定訳聖書が指摘される。しかも批評家として名高いF. O. マシーセンの、その名もズバリ『翻訳』という論文では、ラテンやギリシャの古典の英訳がシェイクスピアをはじめ当時の英語に影響を与えた「イングリッシュ・ルネサンス」が指摘されている。どんなに近い言語間でもその差がゼロということはあり得ない。それどころか講演では、漢字圏同士、アルファベット圏同士だと、つい引きずられて翻訳が上手くいかないという例も挙げられていた。とすれば翻訳とは、原理的には不可能かもしれないその差を埋めながら、実践的に最大限「等価」にすることだろう。だからこそ1言語の中だけでは起こらない変質が起こり、それはマズい場合には忘れられ、優れた場合には後世に残る豊かさを生む。

 と、ここで私たちは、一口に「○○語」と言っても、その中で「豊か/貧しい」「上手/下手」といった区別をしていることに改めて気づく。これはまた、「思索的/実用的」と換言してもよいのかもしれない。もし「世界言語としての英語」がユートピアを目指すとすれば、世界には英語を母語としない人々がたくさんいるのだから、そこでの英語は「下手かもしれぬが実用的な英語」となるほかない。誤解を恐れずに書けば、これがビジネスで言われるグローバル・イングリッシュ(GE)だ。恐らく、ここで問題が生じる。GEはどれくらい「豊かな英語」であり、どれくらいニュースピークなのか?

 英語の覇権が取り沙汰されるとき、そこでは英語話者の優位がほとんど自明視されていると思われる。しかし別の言語が触媒となって言葉が豊かになった例が多いことを思えば、英語だけに染まることは何より英語にとって不利なのかもしれない。確かに現在は、英語が広がるにつれてむしろ様々な英語が各地で生まれ(インドの「インディッシュ」など)、その素朴さがかえって迫力を持ったり、そこから新たな表現が生まれたりする場合も多い。しかし、その覇権の強大さのあまり、実用一辺倒の「英語」だけが溢れる危険性は、意識しなければならない。そのためにできることは、それこそニュースピーク思考並みに単純な話かもしれないが、自戒を込めて書けば、やはりきちんと語学を勉強するということだろう。

『1984年』においてニュースピークへの移行完了は2050年が目処であった。現実の1984年は無事に過ぎたが、ニュースピークとの戦いは文字通り現在進行形なのだ。

※当記事は「アステイオン」ウェブサイトの提供記事です
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『アステイオン82』
 特集「世界言語としての英語」
 公益財団法人サントリー文化財団
 アステイオン編集委員会 編
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