N・ポートマン、迷走の女優人生
褒められ好きの優等生?
映画スターが箔を付けるために、学業に真剣に取り組むポーズを取っていたのか。それともセレブとしての衣の下に、芸術的・知的野心を隠していたとみるべきなのか。
謎は解消するどころか、ますます深まっていった。ポートマンは近年、さまざまなインディーズ系の映画に出演し、映画の脚本と監督も手掛け、小説の執筆にも興味を示している。
『Vフォー・ヴェンデッタ』(06年)では髪を剃ってスキンヘッドにし、『クローサー』(04年)ではセクシーなポールダンスを披露して話題になった。インディーズ系映画に積極的に出演するという芸術路線の延長線で捉えれば、スキンヘッドやポールダンスは、自分の既存のイメージを壊してでも作品の質を高めようとする態度と解釈できるかもしれない。
しかし見方を変えれば、芸術家肌の自分をアピールするための安易な過剰演技にも見える。優等生タイプの若者が褒められたくて必死になっている証拠と言えなくもない。
ハーバードを卒業した後は、エルサレムのヘブライ大学に一時留学。野生動物の研究と保護に取り組むジェーン・グドール・インスティテュートに寄付をし、子供の頃から菜食主義を貫いている。途上国でのマイクロファイナンス(貧困者を対象とした小口融資)の必要性を訴えて、講演活動も行っている。
『クローサー』で初めてアカデミー賞(助演女優賞)にノミネートされたときは、「私はまだすごくない」と述べた。では、ポートマンが考える「すごい」とはどういうことなのか。
ポートマン自身の発言をたどっても、この問いの答えはなかなか見えてこない。
05年には、美容雑誌アリュアーのインタビューで、公民権運動指導者W・E・B・デュボイスの「二重意識」という言葉を用い、アフリカ系アメリカ人の境遇とセレブとしての自分の境遇を重ね合わせるかのような発言をした。この発言はアフリカ系アメリカ人の苦しみを軽んじたものであると反発を買い、謝罪と釈明を行った。
発言内容の妥当性はさておいても、美容雑誌のインタビューでそんな難解な言葉を口にすること自体が不可解だ。頭脳派映画スターのイメージに磨きを掛けようとしたのかもしれない(ファッションの世界をまったく理解しておらず、発言の場違いさが分からなかっただけなのかもしれないが)。
目指しているゴールがはっきりしないのは、ポートマンだけではない。同じ世代のエリート層に広く見られる傾向だ。
同世代に共感される理由
この世代の特徴は、内面の謎の激しい炎に突き動かされていくつものジャンルに手を出す半面、どれか1つの道を選べないことだ。同世代のアメリカ人がほかの映画スターよりポートマンに共感を覚えるとすれば、その理由はここにある。
映画をヒットさせて商業的成功を手にすること、挑戦的な芸術映画に関わること、大学で学んだことを生かして社会貢献を行うこと──あらゆることを手掛けようとするが、どれにも全面的にのめり込まないところに、エリートの若者たちは自分との共通点を見てきた。ポートマンは従来の得てして破滅型の映画スターと一線を画し、新しい映画スター像をつくり出した。
しかし最近遂げつつある変化により、若いエリート層に共感される映画スターという地位が脅かされかねない。ポートマンの本質は互いに矛盾する野心を2つ抱いていることにある。それなのに、高く評価された『ブラック・スワン』のバレリーナ役は、まじめな頑張り屋という1つの側面だけを際立たせた。
それに、ポートマンは6月で30歳。近く母親になる。何より、オスカー女優という一生ものの勲章も手に入れた。
こうした「大人」への変化は、本人とファンの両方にとって居心地悪い状態を生む可能性がある。同世代の若者たちは置き去りにされ、ポートマンは成功の大きな要因を失いかねない。
[2011年5月25日号掲載]